心に残る恩師

管理人

 私の父は、福島生まれです。東京で仕事をしていた父は、東京大空
襲の後、生まれ故郷である福島に母と共に疎開しました。父は、経験
を生かし時計ラジオ店を開業します。長男、次男、三男の私が生まれ
ます。長男は私が生まれる1年前に亡くなりました。生活は厳しく父
は家族を養うため単身横浜に時計販売修理の出稼ぎに出るのです。

 私は、岩代町立小浜小学校に通います。3年生の担任になった先生は、
二本松から来た小柄な元気な女先生でした。お名前は、蓮見和枝先生。
(後に小浜在住の小浜中学校の金田先生と結婚。)蓮見先生とは1年間
だけのお交わりでしたが、今に至るまで、お付き合いをさせていただ
いております。私の家族ともお付き合いが続きました。蓮見先生は、
1学級の担任というだけでなく、クラスの子の持っている能力を最大限
に引き出してくれました。その一つに学級全員に日記を書くことを推奨
されたことが揚げられます。先生が毎日全員の日記に目を通され、一
言二言書いてくださいました。それが、励ましであったり、慰めであった
り、喜びでもありました。時には日記に書いたことが学級内で話題と
して取り上げられ、人のことを思う優しさや、物事について考えると
いう事を教え、育ててくださいました。

 私が3年を終えた時に父が家族を迎えにきました。そして、横浜の
戸塚に住むことになるのです。春休みの間に戸塚小学校に転校の手続
きを取りましたが、蓮見先生が戸塚小学校まで来てくださって、4年
の担任の先生と話をしてくださいました。そして、戸塚小学校のクラス
と、蓮見先生のクラスとで絵、習字、作文、文字と声の手紙の交換を
するようになったのです。後で知るのですが、この事が縁で個人的に
文通を続け、中学生になった時に福島まで会いに行った人がいたのです。
1年だけの担任の先生が、転校先まで来てくださり、田舎の子が今ま
でと同じように学校生活が送れるように気遣ってくださったことは、
決して忘れることのできない出来事であり、私の成長のために大きな
出来事であったと感謝しております。

『兄弟よ。私は、あなたの愛によって多くの喜びと慰めとを与えられた。
聖徒たちの心が、あなたによって力づけられたからである。』
ピレモンの手紙7節

(伊東昌彦)

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