イエスは教えるために来られた

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◆ルカは、イエスの公生涯がガリラヤの諸会堂で教えることから始まったと述べている(ルカ4:14-15)。会堂は、イエスの時代の重要な教育機関であった。会堂での教育は、律法と預言書の朗読に根ざしていた。
続いて、講話、教えの時間があった。福音書は、イエスの公生涯のすべての働きを統合する要素として教育を捕えている。イエスの教えは、会衆の前に立つ説教家ではなく、弟子たちと親しく対話する教師である。イエスの説教は、その内容が"神の国の福音"であった。これは、イエスがその教えの中で繰り返し、触れておられる主題である
(マタイ5:19-20ほか)。

◆伝統的に、共観福音書で最も確立されていることの一つは、「イエスが普通ラビとよばれている事実である。」イエスは、律法学者としてではなく、ラビ的な権威を持つ教師として教えられた(マルコ1:22)。しかし、誰の手によってイエスは任命を受けられたのだろうか。バプテスマのヨハネの権威について問いかけることによって(マタイ21:25)、イエスは自分の権威が明らかに天からのものであることを示そうとされた。確かなことは、ニコデモがイエスを教師(デダスカロス)と認め、更に重要なのは、「神のもとから来られた教師」としていることである。イエスの中にあった弟子訓練は、理論的な訓練ではなく、自分自身と自分の全エネルギーをささげるように召された実践的な訓練であった。彼らの仕事は、漁師が人を漁る者になることである。イエスは、正しい教義を教える師というより、むしろ、人々が従い模倣する職人の親方としての師であった。

◆静かな所に退き、また、人々の前で天の父と交わるイエスを通して、彼らは祈りを学んだ。彼らの師が、腰にタオルを巻いて彼らの足を洗った時に、自分を与えて仕えることをより深く理解した。イエスは、他の教師たちと違い、イエスが真理であり(ヨハネ14:6)、弟子たちの求めている真理の体現者であった。弟子たちにとってイエスは校長であり、教材であった。
「なぜ教会は教えるのか」(ルシアン・コールマン著)より

神山 武

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