順風満帆とはいかないけれど

Shin1

◆私たちは、日々の生活の中、いろいろな悩みや問題を抱えて生きている。取るに足らないようなことから、自分の存在をかけるほど重いことを抱えることもあるだろう。そもそも私たちがこの世を生きていく中で、いつも順風満帆などということはあるはずもない。様々な問題に巻き込まれ、大なり小なり悩み苦しみを抱えることの方が、人として普通なのかもしれない。

◆「苦しいときの神頼み」という言葉がある。私たちは困難に直面すると、神様ならば私たちの悩み苦しみを取り除いてくださるはずだと信じて祈る。順風満帆のときよりも、困難の中にあるときの方がより神様を求めてしまうのは、人間の弱さと愚かさの象徴的な姿のようにも見える。このような私たちに対して、神様がなされようとすることは、私たちを悩み苦しみから逃れさせることではなく、むしろ私たちに自分は一体何者なのかと見つめ直させようとすることではなかろうか。

◆イエス様は二人の犯罪人とともに十字架にかけられた。そのとき犯罪人の一人はイエス様に対して「メシアなのだから我々を救ってみろ」と言い、もう一人の犯罪人は悔い改めて「御国においでになるときは私を思い出してください」と言ったという。イエス様に救われたのは後者の方であった。私たちは、ともすれば苦しみから逃れることばかりを必死で求めてしまうものである。しかし、苦しみから逃れることはできなくても、自分が主によって覚えられ、どんな自分であっても主によって赦され生かされることを知る、ということの方がどうやら良さそうなのである。

◆困難などというものからは、何とか逃れたいものである。だがそれを通してあらためて主の姿を見つけ出すということも少なからずあるだろう。この世の中を生きていく上で、これからどんな困難が待ち受けているのかは全くわからない。しかしどんなことに巻き込まれても、苦悩に支配され、それから逃れたいと苦しみ願い続けるのではなく、なおも自分が主の中に生かされているというすばらしさに気づかされたい。困難を抱えながらも喜びを持って歩むものへと少しでも変えられることを祈りつつ。     (宮﨑英剛)

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