「being」と「doing」

Shin1

◆今まで何度も繰り返し聞いてきた「being」と「doing」。これが自分に語られたメッセージであるとやっと気づいたのは、つい最近のことでした。

◆言葉の通り、「being」は存在、「doing」は行動。人は自分が存在するということだけでは満足せず、神や人からもっともっと認められたいと思うあまり、行動の中に存在価値を見つけようとするそうです。でも、面白い事に、人間はやっぱりhuman doingではなく、human beingと言われるのですね。

◆ルカの福音書にはレプタ2枚を捧げた女性の話が出てきます。金持ちは大金を捧げました(doing)。会計上は潤った訳ですから、人々にとってはありがたかったかもしれません。しかし神様は、わずかな捧げ物をした女性の心(being)を喜ばれ、祝福されました。この時私の心を捉えたのは、彼女の捧げ物が、神様以外の誰の目にも留まらず、人々の関心をひく事はなかった、ということです。私は、彼女こそ真の礼拝者だと思いました。

◆賛美の奉仕で人前に出る事が多いため、自分自身が100%神に向かう事、つまり人からの関心をひくために仕えているのではない事を、いつも確認するようにしています。しかし、実際のところ非常に難しいのです。日曜日、一人の礼拝者という思いで集っている(being)にも関わらず、奉仕者として最大の能力(大した技術はないのですが)を発揮したい(doing)という自分も共存しており、祈っても祈ってもこんな嫌な自分が消えないのです。まさにdoingの罠でした。

◆ 神様は私に「doing」ではなく「being」で生きるようにと宿題を与えられました。実際は、何かするべき課題(doing)が与えられた方が、私にはずーっと気が楽なのですが、あえて苦手なbeingに挑戦させようとなさる神様に、賭けてみようと思います。                 高橋利佳

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