〜遠野の風だより〜 No.13

ありこ

岩手に来て、10月でちょうど一年です。
始めの3ヶ月は盛岡のアパートから、週の半分以上は遠野ボランティアセンターに
寝泊りして、被災地に通っていました。
そのころの被災地、釜石や大槌は、くしゃくしゃと丸まった車が集められていたり、
壊れた建物や木に衣類やいろんなものが引っかかったままでした。
また、被災者は仮設住宅に入居したばかりで、ご近所付き合いも少ない状態でした。

年が明けるころにやっと信号機が復活し、警備をしていた全国から来ていた
警察官も少なくなり、仮設商店がポツポツとオープンし始めました。
私たちの住居も遠野に移り、活動がしやすくなりました。
年明けころから、小鎚第4仮設のお茶会に参加されているおばちゃん達の
笑顔が増え始めたように思います。

  被災から一年。たくさんの支援でなんとかがんばって来れた。
  それから半年、町の復興計画も二転三転でまだ定まらない。
  これからどうなるのか、どれだけ頑張れるのか。

被災地からこんな声が聞こえてきます。

お茶会に来ているお一人が、元の住んでいた所に家を建て始めました。
けれどそのすぐ近くに住んでいた方は、元の所に帰りたくない、と。
子どもさんがいるか、年配者だけなのか、家族構成によっても違いはありますが、
住民の思いは様々です。

私たちの働きも後半年です。この一年どれだけのことをやってこれたのか?
あと半年をどうすれば良いのか?
焦りがありつつも今まで通りしか出来ないのか?
主の導きを祈りつつ被災地へ向かいます。

・私はだいぶ前から下記の「clay」の記事をデボーションのノートに貼り付けてある。
 『USAトゥデイ紙のジャック・ケリーは次のように語っています。
  我々は飢餓の時、東アフリカ、ソマリアの首都モガディシュに行った。
  ある村に行った時、全員が死亡していて、村は死臭がしていた。
  そして一人の少年に出会った。
  同行していたカメラマンが持っていたグレープフルーツを与えようとしたが
  彼はグレープフルーツをつかむ力がなかった。 
  そこで、われわれは半分に切ってあげた。
  少年はそれをつかむと村へと歩きはじめた。少年は村に入っていった。
  そこには小さな男の子が倒れていた。
  その目は完全に光を失っており、われわれは死んでいるものと思った。
  それは少年の弟だった。
  少年は弟のそばにひざまずき、グレープフルーツの一切れを
  自分の口に入れて噛んだ。
  それから弟の口を開きグレープフルーツを入れ、弟のあごを上下に動かした。

  少年が弟のために2週間もそのような行為をつづけていると知った。
  数日後兄は栄養失調のため死んだが、弟はいのちをとりとめた。』

  私にできること
  せめて、せめて毎食心から感謝して食べよう。
  そしてこの記事を忘れないでいよう。

◆エジプト王ファラオの軍隊に追いつめられたイスラエルの群れは、紅海を前にして絶体絶命の状況になってしまいました。そこで、イスラエルの民が考えつく方法は、せいぜい最後の一人が死ぬまで戦うか、白旗を揚げて降伏することくらいしかないでしょう。誰にも海を分けるなどとは考えもできなかったでしょう。しかし神は、海を割いてイスラエルを救われました。

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