・私の教会のUさん(婦人)に聞いた話です。
Uさんの娘さんS子ちゃん(クリスチャン)は中学2年生、つい最近
関西方面に修学旅行に行って来たそうです。
研修旅行と言うそうです。
研修の目的は「日本の歴史、文化遺産を直接体験する、人権ゆかりの地を
めぐり人間の尊厳、人権について学ぶ」
・コースは、寺院見学→人権博物館→コリアンタウン体験→法隆寺などなど・・・・
一日目 ある寺の見学が終わって、生徒全員に学業のおふだが配られました。
そのおふだを手にしたS子ちゃんは
「何だコレ!! 私はクリスチャンだからこれはいらない」と心が叫んだそうです。
何とも言えない気持ちだったと。
・次の日また別の寺で仏像などの見学、説明を受ける時になり、どうしても
受けたくないと感じ「私はクリスチャンなので中に入りません」と申し出て
外で待つことが許された
・しかし そう宣言して一人外に座り込んだのですが、何故かとても辛くて
涙が溢れてきてしまったそうです。
しばらく経って「どうした!◯◯(S子ちゃんの名前)!」と声をかけられました。
そこには担任の男性教諭が立っていたのです。
S子ちゃんは訳を話すとその教諭は「僕もクリスチャンだよ、だから僕も
中に入らない。そっか〜〜◯◯(S子ちゃんの名前)もクリスチャンか〜〜。」と。
・それから友達が出てくるまで1時間半ぐらいの時を教諭と信仰の話、教会の話を
したそうです。
聖書 申命記31:8
「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを
見放さず、見捨てられないであろう。
恐れてはならない、おののいてはならない」
◆今まであまり意識しなかったもので、このところいやでも意識せざるを得ないのは、「老い」ということです。いまだに講壇に立ち、牧師職をさせていただいていますが、しみじみ思うのは「若い時にはできていたことが、できなくなっている」ということです。
◆「元来、沖縄には、"人を殺す"という言葉はありませんでした。
"クルスン"とか"タックルスン"といった殺すという意味の方言はあります。しかし、この語は牛や豚、蛇などの動物に対して用いられていたもので、人間に適用される時には、たたくなどの意味しかもっていませんでした。言葉がないということは、その機会がないことの証拠でもあります。ちなみに、戦前、沖縄では、殺人事件はほとんどなかったのです。あったにしても例外的な事件でした。