〜オリーブの香り〜 No119 「ビリョクだけどムリョクじゃない」

Shin1

聖書の中で、傷ついた旅人を見て、サマリア人が「憐れ」に思うという場面がある。この「憐れ」は原語では、「内臓をひっかき回され、ひきちぎられるような痛み、苦しみを覚える」という意味だと教えられた。「ケア」という言葉も、元の意味は「悲しみを共にする」である。

8月、広島、長崎、終戦記念日、様々な思いが交錯する。「平和」を考える日々が続く。原爆や戦争で失われた命、被爆者の苦しみ、遺族の苦悩、そうした人々の思いに心を寄せ、他人ごとではなく痛みと悲しみを感じるものでありたい。

しかし、「平和」とは、本来「平和と公正」を意味している。ただ単に「紛争や戦争のない状態」ではなく、誰もが、どこに生まれようと、どんな病気や障がいがあろうと、人として大切にされ、その人らしく生きていくことのできる社会という意味である。

筋ジストロフィーで既に亡くなったMさん、車いすで積極的に街に出ようとバリアフリー運動を展開しているTさん、Sさん、難病に苦しみながら生きることの大切さを説くPさん、全盲で我が家によく出入りし、今は社会人として活躍しているFさん、障がある子どもを一生懸命育て、支えたOさんの家族、そうした人々と出会い、苦しみや悲しみを聞き、ある時は、共に喜ぶ中で、実は私のほうが、多くの大切なものを受け取っている。
そうした人々を思い浮かべ、また様々に報道される被ばくや戦争の悲惨な実態を見るにつけ、「平和な社会」を希求する。

しかし、平和憲法に関わる様々な問題、世界を見渡せば止まない紛争、社会的弱者への差別、貧困や飢餓の中で、何ができるのかとも思う。

だが、「ビリョク(微力)だけどムリョク(無力)じゃない」という核兵器廃絶を訴える長崎の若い高校生たちの合言葉に励まされる。自分にできることを小さくても一つひとつ丁寧に取り組んでいきたい。

by とうちゃん

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