〜オリーブの香り〜No129 『心の目がひらかれる』 

Shin1

昨日の礼拝のメッセージは、ヨハネによる福音書9章1~11の生まれつき目のみえない人が、イエスによって目が見えるようになったという箇所に基づくものだった。聖書には、この人が目が見えないのは、「神の業がこの人に現れるためである」と書いてある。

私は、以前我が家に出入りしていたF君(彼も全盲で、宇都宮から横浜にきて下宿暮らしをしていた)のことを思い浮かべながら、彼ならどう感じるだろうかとメッセージを聞いていた。彼は、目が不自由であることにめげず、自分の可能性を切り開き、一人の独立した社会人になったが、彼はどのように自分の障がいを受け入れ、何によって救われ、生きがいを、生きる意味を見つけたのか。

丁度その日の新聞に「全国盲学校弁論大会」の記事と優勝弁論の全文が掲載されていた。
優勝した女子高校生は、生まれながらの弱視で、肢体不自由という障がいがあり、母もまた障がい者であり、姉も含めて3人暮らしをしている。
彼女は、障がいのある自分の体を憎み、障害者として自分を生んだ母を憎み、健常者である姉もまた憎いと思いながら生きてきた。自傷行為を繰り返す日々であった。
そんな彼女は、特別支援学校に通い始めて、初めて「温かい」と思える人たちと出会う。
そのような中で、母の苦しみ、姉もまた精神的にぼろぼろだということに気付く。初めて母と姉の苦しみに目を向け、どれだけ母と姉が自分を大切にしてくれたかと感じる。今度その二人のために私は精一杯生きていこうという決意したという内容であった。
憎んでいた母、姉、そして自分をいとおしいと思うようになり、「今度は、私が2人のことを大切にしたい」決意するようになる。
この180度の変化は、「内なる目」、「心の目」が開かれたということではないか。これは、その人の中に起きたいわば「奇跡」なのだと思う。

きっと、前述のF君にもこのような180度転換する何かがあったのだと思う。
ヨハネでは、続く記述の中で、目が見えるようになった人は、何度もファリサイ派の人々に呼び出され尋問されるが、堂々とイエスが神の子であると述べている。これもまた、「内なる目」、「心の目」が開かれたことによるのであろう。この人に起きた本当の奇跡は、実はこの「内なる目」が開かれたことだと思う。

Byとうちゃん

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