聖 書 : ペトロの手紙Ⅰ 3 : 8~12

説教題:「 報復の無い世界へ」

 

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今週の風景 No.437  

管理人
いやー暑い!とにかく暑い!
そんな7月最終の日曜日でした。

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先週の主日礼拝はSukkahと松崎牧師は前橋教会に行っていましたが、留守の礼拝奏楽はユースがしっかりやっていた、とのコメントを聴いてとても頼もしく思いました。

暑さもありすぐにカッとなってしまいそうですが、「怒るに遅く」ありたいものです。

◆ある会社経営者がこう言いました。「最も危険なことは、急ぎの仕事が重要な仕事を押しのけてしまうことです」と。その言葉に私は大変ショックを受けました。それこそ、自分が間違った優先順位に従って生活してきたことを言い当てていたからです。

◆私たちは緊急な事と重要な事の狭間で、絶えず緊張して生活しています。問題は、重要な事は急がなくていいというところにあります。 大切な事で今すぐしなければならないということは、まれにしかないのです。十分に祈る、聖書研究をする、ノン・クリスチャンの友を訪問する、重要な本をしっかりと研究する、子どもの将来について決め るーーーこうした事は、今すぐにでなくても良い場合が多いのです。 しかし緊急な仕事は、今すぐしなければなりません。そこには絶えず圧迫があるからです。

◆急用の電話が、次々と掛かってきます。その時は、断ったら悪いよ うな気がしますし、大事な事だとも思い、つい引き受けていざ取り掛かるとエネルギーを消耗させる結果になります。そして重要だと思ったことが、それほどでもないように思えてきて、本当に重要なことができていないという虚脱感に悩みます。そのとき、緊急という惑わしに振り回されてしまった自分に気づくのです。

◆こうした生活パターンから、逃れる道はあるのでしょうか。 それは、主イエス・キリストの生活の中にあります。

石田政美

長崎に住んでいた頃、8月は特別な月でした。原爆投下時刻の11時2分にはサイレンとともに全ての公共機関の乗り物がストップし、道行く人もともに黙祷をささげます。夏休み中にもかかわらずその日は登校日となり、子ども達は自分たちの作った灯篭を平和公園に飾り、式典に参加し黙祷をささげ、ともに灯篭を流します。長崎にとり原爆体験の痛みと平和への願いは人事ではなく目を背けてはいけない切実な想いなのです。私自身も被爆体験者の話を聞き、戦争・原爆への思いに触れたとき、戦争が如何に悲惨なものかを、そしてこのようなことを2度と繰り返してはいけないという思いを強くもたされたものでした。

私たちが当たり前のように感じている穏やかな日常が、今この日本においても脅かされる事態になっているのではないかということを感じます。難しいことは分からなくても、漠然とした不安が募ります。子どもをもつ身となり、その脅威は自分がつないでいく命が傷を負うことがないようにと祈る想いをもたされます。そんな平和を祈る想いの中で、小学生の子どもが述べた平和宣言が心に残りました。

◆一日が 30時間だったらいいのに・・・と考えたことはありませんか。 たしかに、それだけの時間があれば忙しさから解放されると思うかもしれません。私たちはいつも、やり残しの仕事をかかえて生活しています。まだ手紙の返事を書いてないし、訪ねたいと思いながらそのままになっている友人がいます。レポートもまだ完成してないし、読みたい本もあります。
いったい解決策はあるのでしょうか。

◆それでは、一日が 30時間あれば問題は解決するでしょうか。 結局、一日 24 時間しかない今、感じているのと同じ欲求不満に陥るのではないでしょうか。 たとえば、母親の仕事には終わりがありません。学生も、教師も、 職場で働いている人々も、牧師も、だれの仕事にも終わりがありません。 時間がたっても解決するとはいえず、苛立たしく思うだけです。 子どもにはどんどん手間がかかり、心配は尽きません。時間がたっても解決するとはいえず、苛立たしく思うだけです。仕事の上でも、教会でも経験を積むにつれて、さらに多くの仕事が増えてきます。懸命に働いているにもかかわらず、楽にならないというのが私たちの現実ではないでしょうか。

◆静かに反省してみると、このジレンマは単に時間不足という問題ではなく、根本的には優先順位の問題だということがわかります。(続く)

石田政美

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