CS(教会学校)でいつも奮闘してくださっているH姉とA姉が、「次男が書いたもの」と見せてくださったその紙には『神様がくださったもの』についてたくさんの事柄が並んでいました。日ごろ親として子どもに「感謝する心」を伝える(感じてもらう)ことの難しさを感じていた私でしたので、正直なところ、子どもが書いた「神様からもらっている恵み」の多くは、息子が思いついて書いたものではなく、大人からの助言を聞いて書けたものではないかと、つい意地悪く考えてしまったのでした。しかし、聞いてみると、『「かみさまがくださったもの」について考えて書いてみて』と話した後に息子が一人書き綴ったものだった、とのことでした。読みながら、いつも甘えん坊できかん坊な小学校2年生の息子、親の目からは頼りなくみえる子どもの中に芽生えている力に驚くとともに、多くの人たちに支えられていることの感謝と神様によって育てられていることの確信を感じた瞬間ともなりました。
『かみさまがくださったもの』
きょうかいにいけること。
がっこうにいけること。
げんきなからだ。
おいのりできること。
おとうさんがいること。
おかあさんがいること。
きょうだいがいること。
おうちにいられること。
あそべる手とあしがあること。
いとこがいること。
おじいちゃん おばあちゃんがながいきしてくれること。
みんなとともだちになれること。
あそべるおもちゃがいっぱいあること。
きょうかいでいろんなことをまなべること。
ならいごとができること。
かみさまとぼくがともだちになっていること。
しゃべれるくち。
みることができる目。
きくことができるみみ。
においをかぐことができるはな。
すわったりできるいす。
ねれるベッド。
たべれるおいしいごはん。
からだをあらうおふろ。
おもしろいほん。
ふしぎなくさや花。
2015.5.31
イラスト付きで綴られた言葉から、つたない中に息子の心を感じられました。神様がついてくださっているから大丈夫なのだと思わせてくれた瞬間であり、私も神様から大切な宝物を授けていただいていることに感謝する時となりました。
『わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。』
by YS
◆聖書のヨブ記。それは、私たち信仰者にとって、ある意味で驚異です。すばらしい信仰をもっていても、実にこれほどまでの過酷な試練に、私たちは現実に遭遇するのだということをそれは物語っているからです。私たちのもっている信仰、それは、苦しみや困難や、災いにあわないための、お守りでは決してありません。
◆信仰者はその生涯の中で、自らがボロボロになってしまうほどの厳しい試練に、しばしば遭遇するのです。限界を越え崩壊してしまう寸前の、極限状態に達すような苦難をです。それは、当然のことながら、きれいごとではすまされない、現実の世界なのです。
◆けれども、信仰者の遭遇する苦難で、一点:ほかと際立って違う点があります。それは、信仰者にとって信仰をもって遭遇する苦難には、どれ一つとして意味のない苦難や試練はない、ということなのです。
◆一切はやがて必ずや益と変えられていく。ここで一つの苦難に出会うことによって、自らがまた一つ着実に成長し、一回り大きくなる。そして、その結果として、次回同じような試練に直面しても、必ず乗り越えていくようになるのだという希望に満ちた信仰による確信なのです。
◆「もうだめだ」と思わずあきらめてしまうようなその時にも、心のどこかでは、信仰による確信によって、そのことに対する主による勝利を、堅く信じて忍耐していくことができるのではないでしょうか。信仰者には「確信」の二文字はあっても、決して「絶望」の二文字は、ないのです。