今週の一面『聖書の訳』9/13

Shin1

◆コリントの信徒の手紙一7章21節には、奴隷だった人がクリスチャンになってからの生き方について書かれており、以下のように様々な訳があります。
「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由な身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。(新共同訳)
「召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。(口語訳)
「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。
「あなたが奴隷として召されたのなら、そのことで悩まぬようにしなさい。しかし、たとえあなたが自由人になることができるとしても、あなたはむしろ〔神の召しそのものは大切に〕用いなさい。」(岩波訳)

◆①は奴隷のまま生きなさい。②と③は自由になりなさい。④は自由になっても...という風にそれぞれ意味が全く違います。一体どの訳が正しいのでしょうか!?訳した人たちは皆、自分の訳が正しいと思って訳しています。これと同じように私たちが聖書を読むときも必ずそこに解釈が生じてくるのです。

◆唯一神の言葉である聖書が訳者によって、また、読み手によってこれほどまでに意味が違ってくるというのは、正に人間の限界と多様性の表れです。それはつまり、聖書を教科書のように、あるいは、ルールブックのように読んだり、用いたりするべきではない!ということを示しているのです。

松﨑 準

過去の記事