今週の一面『~聖書の訳~(続き)』9/20

Shin1

◆先週の巻頭言では、コリントの信徒の手紙一7章21節の「様々な訳の違い」にフォーカスを当て、私たちが聖書を読む際に生じる限界や豊かさ・多様性について触れ、それ故に、聖書を教科書やルールブックのように用いるべきではない、と書きましたが、では、どのように聖書を読めば良いのか、ということまで書くことができませんでしたので、今回はそのことを少し書かせていただきます。

◆繰り返しになりますが、聖書は教科書やルールブックのようなものではなく、生きた神の言葉が記されている道しるべであり、神から人間への問いが詰まっている書である、と私は信じています。それ故にこそ、聖書は私たちの都合や主張を優先させるために用いられるものではない、ということを大切にしたいと思うのです。

◆ファリサイ派や律法学者たちは、聖書(旧約聖書)を、正にルールブックのように、つまり、人を裁くために用いていました。私たちの聖書にも律法の書(モーセ五書)がありますが、イエス・キリストというフィルターを通して読むことで、律法の書は単に人を裁くための書ではないことがはっきり分かります。

◆最後に、聖書をそのまま素直に読むということはとても大切です。しかし、「そのまま素直に読む」ということは、書かれている文字をただそのまま読む、ということではなく、聖書に何が書かれているのか、その真理(メッセージ)をできる限り正確に理解するように努める、ということです。そのためには、時代背景や文脈、そして、誰に対して語られているのか、等をしっかりと押さえた上で読むことが必要不可欠なのです。その意味で、私は信仰と学問は両輪だと思っています。

◆今後も、神の前に謙遜な態度で、聖書の一節々を大切に読みながら、聖書に沢山詰まっている神の愛を分ち合いながら、共に教会を建て上げていきたいと願っています。

松﨑 準

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