◆親元を離れてから13年、思い出の風景はいつも家族で囲む食卓。反抗期まっただ中でも、大きな家族喧嘩があっても、できるだけ毎朝毎晩、家族揃って食卓を囲んでいたことを温かく思い出します。

◆礼拝は神様から招かれた食卓に例えられます。私が家族4人で囲んでいた小さな食卓では無く、何家族も集い共に食事を分かち合う大きな食卓。それはまるで年末年始に親戚一同が集まる食卓のようです。そこでしか会わない人がいて、普段は食べないものを食べながら何となく皆がお祝いのような気分で幸せ、そんな食卓。

◆もちろん、楽しいだけの食卓ではないかもしれません。台所に立つ人々は大勢の食事の準備にうんざりし、青年達は昔話の連続にイライラしているかもしれません。子どもたちは早く飛び出して遊びたい気持ちでそわそわし、高齢のおばあちゃんは眠くなっている、そんな食卓かもしれません。全員が何かしらの居心地の悪さを感じつつ、それでもなお、共に食卓を嬉しく囲んでいる。

◆私の礼拝のイメージはそんな食卓です。神様から招かれた食卓につき、何の準備もできない人も、台所で一生懸命準備をしている人も、みな等しく共に神様からの嬉しい恵みを分かち合うことを促されています。少しの居心地の悪さを越えて、神様から招かれて食卓につく豊かな恵みを共に味わえることを喜びましょう。

◆今週も教会という私たちの家の、「礼拝」という神様から招かれた食卓に帰ってきました。ご一緒にその食卓を囲む喜びから一週間を歩んでいきたいと願っています。       

武林 慧

高校のとき『Cross Cultural Communication』というクラスを受講しました。意訳するなら「異文化をまたぎ、コミュニケーションを通してお互いを知る」というところでしょうか。アメリカ、イギリス、イスラエル、インド、韓国、中国、日本と多岐に渡る国の人達と椅子を輪にして座り、互いの国の文化や価値観を分かち合い、異文化に触れる貴重な体験をさせてもらえた時であったと感謝しています。このクラスを通して自分のもっていた価値観が唯一・絶対ではないこと、また自分が正しいと信じていたことが見る視点を変えると決して正しくないことがあり得ること、また色んな視点に立つことの面白さを学び、視点を変えて観ることの大事さを教えてもらいました。

その頃の私は日本人の両親をもち、日本人であるという自分と、東南アジアで生まれ育ち、東南アジアの文化・価値観の中で生きている自分との中で自分のアイデンティティーを上手に作りあげることが出来ず混乱した時期を過ごしていました。それは高校卒業後に日本の大学に進み、日本の中に身をおいたときに顕著に現れ、自分のルーツである日本に住んでも日本人とはどこか違う自分を感じて落ち込んだり、実家に帰省して地元の人と触れても外国人である自分を感じ、どちらの国にいても根なし草のような自分の存在をどう受け止めればよいか分からず混乱しました。

今ならまさに青年期のアイデンティティーの確立期にあったなあ~と落ち着いて分析できますが、その当時は人と違う経験をたまたま積んできた自分の個性を自分に欠けた部分があるのではないかと感じ疎ましく思ってしまったのでした。そんな折、友人に誘われ何度となく通っていた教会で『わたしたちの本籍は天にあります。』という一節を耳にし、詳しい説教の内容は忘れてしまったのですが「そうか、私達一人一人が神に創られたものであるならば、私たちの国籍は天国にあり、私たちの真のアイデンティティーは『天国の民』で良いんだな」と妙に腑に落ちたのでした。それとともに根なし草ということは、どんな環境におかれてもチャンネルを切り替えられる良さがあるのかもしれないと高校時代の講義で教えられた多面的なものの見方を感じ、あるがままの自分を受け入れていく時となりました。成人(20歳)の頃からすると、×(かける)2倍+α程の歳となっていますが、成人の日が訪れる日毎に自分が悩んでいた20歳前後の頃のことを懐かし思い返します。そして、その時々において、神様が用意して下さった御言葉やその時々に必要な体験に支えられて生きてこられたんだと改めて思わされるのでした。

By YS

◆「教会という共同体(教会の姿)とは、いったいどういうものなのだろうか。」60年間の信仰生活でずっと探求し続けてきた問いである。◆そんな私の注目を引いたのは、"教会というところは雑然としていなければならない。いやむしろ、雑然としたままであることを必死で守ることを心がけるべき"と言い切っている藤木正三牧師の断想

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教会の目的
 一定の能力、財力、そして共通した価値観、そのような人々を集めれば、団体としてはしまりが良いわけで、団体としては構成する時に配慮をするのは当然でしょう。しかしそのような配慮を必要としない、従って雑然としたままでよい、というよりは雑然としたままでなければならないような団体があります。教会がそれです。教会とは雑然とした者が互いにいたわり合って調和してゆく、そのこと自体を目的とする団体なのです。教会にあっては、調和は何かをするための条件ではなく目的であることを忘れないようにしましょう。                (『神の風景』より)
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「教会の目的」という一文である。

◆まず教会という集まりは、さまざまな人が集まっている多様性を持ったもの。つまり、一人ひとり違っていなければいけないと言う。しかし、私たちは、ついつい同じタイプ、同一であることを人々の集まりに求めやすい。そして、この傾向は、いつしか、同志的徒党を組みやすい。つまり、工藤信夫先生が言われる"排除の構造"(信仰による人間疎外)であり、違いを認めず同質を求める傾向は実は、その組織の死を招くことになるのではないか。    

石田政美

今週の風景 No.456  

管理人
久しぶりの石田牧師のメッセージでした。
心にゆとりを作るには何が第一なのか?を再確認しました。
スケジュールパツパツでも心にゆとりがあれば平安なのですね。
ゆったりと日々を過ごしたい人は神様を第一にしてみましょう。

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今週の一面『 ビジョン修養会 』1/17  

Shin1

◆10日(日)~11日(月)、総勢14名でビジョン修養会(山中湖)を行いました。森の中にある会場(山荘)は貸切状態でとても静かでした。そのような中で2日間、ゆっくりじっくりJOYチャペルの今後のビジョンについて語り合うときが与えられとても感謝でした。

◆様々な議論がなされ、時には熱い意見がぶつかり合うこともありました。その様子を見て私は、皆がいかに教会のことを真剣に考え、いかに教会を愛しているか、ということを思い知らされました。

◆ある方が「私たちは一つ(同じ)にはなれないけれども、一致することはできる!」と言われたことが心に残っています。全員が同じことはできないけれども、それぞれが与えられた賜物を持ち寄り、役割を果たすことで、私たち一人一人はキリストにおいて一つになれるのだと思います。

◆それぞれの役割を「歯車」に例えることができます。「歯車」は色々な形や大きさがあるのに、それぞれが影響し合っています。一つが壊れたら全体が動かなくなってしまうのです。聖書は私たち一人一人を、体の器官の一部分だと教えています。それぞれが役割を果たすことで体(教会)は健康になれますが、しかし、一部分に痛みや不調があると体全体に力が入らなくなってしまいます。

◆また、「一致」と「協調性」は同じではありません。皆が少しずつ我慢して和を保つのではなく、人が自分と違い、皆と違うことを認め、尊重することで「一致」が生まれてくるのです。自分が皆と違うことをむしろ喜びましょう!私たちは、体の器官や歯車のように一人一人が違うからこそ初めて全体として機能することができる。即ち、愛の教会としてキリストに仕え、歩むことができるのです。

松﨑 準

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