◆「教会という共同体(教会の姿)とは、いったいどういうものなのだろうか。」60年間の信仰生活でずっと探求し続けてきた問いである。◆そんな私の注目を引いたのは、"教会というところは雑然としていなければならない。いやむしろ、雑然としたままであることを必死で守ることを心がけるべき"と言い切っている藤木正三牧師の断想
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教会の目的
一定の能力、財力、そして共通した価値観、そのような人々を集めれば、団体としてはしまりが良いわけで、団体としては構成する時に配慮をするのは当然でしょう。しかしそのような配慮を必要としない、従って雑然としたままでよい、というよりは雑然としたままでなければならないような団体があります。教会がそれです。教会とは雑然とした者が互いにいたわり合って調和してゆく、そのこと自体を目的とする団体なのです。教会にあっては、調和は何かをするための条件ではなく目的であることを忘れないようにしましょう。 (『神の風景』より)
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「教会の目的」という一文である。
◆まず教会という集まりは、さまざまな人が集まっている多様性を持ったもの。つまり、一人ひとり違っていなければいけないと言う。しかし、私たちは、ついつい同じタイプ、同一であることを人々の集まりに求めやすい。そして、この傾向は、いつしか、同志的徒党を組みやすい。つまり、工藤信夫先生が言われる"排除の構造"(信仰による人間疎外)であり、違いを認めず同質を求める傾向は実は、その組織の死を招くことになるのではないか。