●JOYチャペルには、「しもべ会」という会があります。
これは、他の教会では、「役員会」とか「執事会」とか言われる会と同じような働きをする会です。JOYチャペルでは、2年に一回の選挙で選ばれた人たちと、牧師、主事などで構成されている会です。毎月一度集まって、教会の働きや課題、行事や計画、会計などさまざまなことについて話し合いをします。

●そもそもなぜ「しもべ会」などという名前となったかといいますと、教会のメンバーから教会の働きを担うために選挙で選ばれた人たちで構成される「しもべ会」ですが、しもべ会の一人一人が奢らず、神さまのために働く僕として教会に仕える気持ちを忘れずにいたいとの願いからです。
あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。

(マタイによる福音書 20章 26-28節) 

●1/10-11には、一泊二日で「しもべ拡大ビジョン修養会」が山中湖で行われました。神のために、教会のために、人のために仕える思いをもった14名がいろいろな意見を交わし、これからのJOYチャペルについて真剣な議論が重ねられました。

●通常、教会には伝道部、教育部、音楽部、総務部等いろいろな部署があり、担当の役員を中心に働きを進めることが多いのですが、JOYチャペルにはそのようなきっちりとした組織がありません。全体的なことは、「しもべ会」で話し合い、その話し合いを元に、具体的な作業は教会スタッフというチームが担います。このスタッフさんたちが非常に重要な役割をしており、影となり、縁の下の力持ち(みなさん女性ですが。。)として活躍しています。特別な集会や行事があるときには、プロジェクトチームを作り、チームを中心に計画し、実行します。チームや部署があるから何かを企画するということではなく、教会で何かをしよう!となったときにチームを作り、実行し、終わればプロジェクトチームは解散。いつでもシンプルで柔軟性のある状態となるよう努めています。

●ちょっと変わった、組織にこだわらない形で歩んできたOYチャペル。これができるのは、メンバーがお互いに信頼しあって、共に仕えることを喜んでいるからではないでしょうか。

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。

(エフェソの信徒への手紙5章 21節)

by しん1

今週の風景 No.455  

管理人
寒い日でした。
今日は、前回オラオラだったエリヤが一変して弱気になっているところで、神様の声に触れるところからでした。
普段から謙遜(全ては神様からの祝福と常に身体で反応すること)でありたいと思いました。

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今日は成人の日。成人式を迎えた人たちは、どのような感慨をもっているのだろうか。
昨今は、成人式の派手な服装が話題になったりする。ちょっと前は騒しい式のことが話題になった。私の時代は、成人式に出席するのは、余程の変わり者で「官」からお祝いなんかされたくないという意識が濃厚な時代であった。

私は、成人の日に何をしていたかという記憶はないけれど、何となく暗い気持ちでいたような気がする。将来に対する漠たる不安があり、少なくとも社会の未来も決して明るいものではなかった。思い起こしてみれば、私は自立もしていないくせに、不遜な若者であった。外面、体面を気にしていた。妙にプライドも高かったのかもしれない。でも内心は自分の将来どうしたものかという大きな不安を抱えていたことは間違いない。

成人式は、様変わりしていくけれど、若者の心情には共通のことが多いように思う。今の時代においても、これからの社会や日本の姿に関する疑問もあり、自分の将来や生活がどうなっていくのかという不安もある。そうした心情を抱えつつも、例えば、震災からの更なる復興に取り組みたいという若者、人々のために尽くしたいと決意する新成人には、心情を揺さぶられるものがある。

今週の風景 No.454  

管理人
一月第二週ともなると通常運転モードになりました。
「決断の時」という題で新年にピリリと緊張感を与える内容でした。

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◆「感性」とは何でしょうか。私は小さい頃よく「あなたは感性がない」と親や学校の先生から言われました。私はこれまで「感性」とは、物事を見たり聞いたりしたときの感じ方やセンスのことであると思っていました。例えば、ある映画を観たときに作者の意図をどう感じ取るかということ。確かに私は少し苦手かも知れません。そのセンスも無い。

◆ある説によれば、「感性の三要素」というものがあるそうです。それは、「気づき」、「感動」、「行動」だそうです。何かを見たり聞いたり体験したりした際、これまでの自分の体験との違いに気づき、感動し、何らかの行動を取ることが「感性」なのだそうです。気づきと感動だけでは駄目で、行動が伴うことで感性は感性するというのです。「感性を磨く」という言葉がありますが、そこには「行動すること」も含まれるのだということを私は初めて知りました。

◆新約聖書の『ヤコブの手紙』にこんな御言葉があります。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコブ1:22)この御言葉から、「信仰」とは聞いて受け入れるだけではなくそれを実践することなのだ、ということを教えられます。「愛」も同じ。つまり、「感性」も「信仰」も「愛」も実践しなければ成り立たないのです。

◆これまで私は何かに行き詰まったり、悩んだりした時には、ただ祈り考え込むだけで、あまり行動に移すことはありませんでした。しかし、今回、あることに行き詰った時、ある意味開き直って、直ちに行動に移してみると、次から次へと新しい視点が与えられ、視野が拡がり、更に様々な気づきや感動が与えられました。

◆これまで、言えなかった人に「ごめんなさい」と言ってみましょう。教会に誘えなかった人を誘ってみましょう。一歩前に踏み込んでみましょう。必ずそこにイエス様がおられます。

松﨑 準

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