◆前回の巻頭言(1/24)で、"教会という集まりは、さまざまな人が集まっている多様性を持ったもの(雑然としている)。つまり一人ひとり違っていなければいけない"との藤木正三牧師の一文を紹介した。さらに藤木牧師は、「教会とは何かをするため(doing)組織ではなく、「お互いがいたわり合っていく集まり(being)である」と語っている。

◆同じ内容を「神の家族」という形で、フィリップ・ヤンシーは『教会〜なぜそれほどまでに大切なのか』(いのちのことば社)で述べている。
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「人間の組織では、人は職務を遂行することで地位を獲得する。...昇進という報酬を見せられれば、人は猛烈にやる気を起こすものだ。しかし家族においては全く異なる。人は家族の中でどのようにして地位を得るのだろうか。子どもは、ただ生まれてきたということだけで家族の権利を『獲得』する。知能に障害があるからといって、家族から追い出されたりはしない。それどころか『生産性』のほとんどない病弱な子どもが、実際、健康な兄弟姉妹よりも多く目をかけてもらえる。...『無関心、ライバル意識、そして嫌悪感と共存しながら、好き嫌いを超えた領域で、愛がいかに存在するのかを、家族は私たちに教えてくれる』」
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◆人はその存在によって家族の一員たる地位を確実にするのであって(being)、決してその働き、能力、機能(being)によってではない。まさに教会の姿は「神の家族」そのものである。   

石田政美

「しかし、あなたが神様に信頼することをやめないでいるなら、
思ってもみなかったときに
あなたを持ち上げ
あなたの心を重荷から
救ってくださいます。
その重荷は、あなたが落ち度のないままに
背負ってきたものなのです。」
これは、ハイジが盲目のおばあさんに読んであげた、お祈りの詩です。

ハイジとは...アルプスの少女ハイジのことで、私が子どもだった頃、TVアニメとして親しまれた作品です。

当時、放送されていた内容には、神さまやキリストについて出てきません。
それでも私は、山羊の乳をゴクリと飲み干したり、干し草に寝転んだり、おじいさんの膝にちょこんと座るハイジを見るたびに、そこはかとなく神さまの息遣いを感じていました。

友人と昔見たアニメの話題になって、アルプスの少女ハイジは、キリスト教の話よ!と言い放っても、孤児が大自然の中でたくましく成長していく話よ!と突っかいされてしまい、原作者のヨハンナ・シュピリが牧師の娘で、和訳されたのが大正時代に遡る話にまで到達出来ないのです。

それほどまでに、日本で子ども向けに制作されたアニメは、宗教の香りに蓋を閉めてしまう文化でもあったのですね。

たまにしか出席することのない祈り会に顔を出したある日、ライフセンターの移動図書館車が教会にやってきました。
そこで新刊になったばかりの、ハイジの贈りもの、と言う本を見つけました。
キリスト信仰に基づく原作を、TV放映されたアニメと比較しながら、イエス様の柔らかく温かな愛が溢れ流れる物語として解説している内容です。
解説著者は、長野のアルプスを望む場所で教会牧師をされている高橋竹夫先生です。

神さまを信じる心が創り出す作品は、信仰と言う形ない姿を理解出来ない子どもでも、じきに成長を終える脳や心臓の襞に、こっそりと印字されるのだと思えます。
大人になって傷ついた時に、力が必要な時に、誰かを励ます時に、子どもの頃に触れた音楽や絵本、アニメや映画が、思ってもみない助けと確信に変わると信じています。
イースターまでの間、原作ハイジを読んでみることにします。
ハレルヤ!

by MxM

今週の風景 No.461  

管理人
本日は石田牧師のメッセージ予定でしたが、週末からインフルエンザ発症された(夫妻揃って)ため、急遽松崎牧師のメッセージとなりました。
松崎牧師と石田牧師は金曜日に普通にお会いしていたところでの土曜日突如発症ということだったそうで、松崎牧師は準備をする時間も充分にはなかったのだろうと思いましたが、礼拝後のスモールグループ(分かち合い)では、そんな感じはなく、普段どおりそれぞれがメッセージから色々な語りかけを受け止めていました。

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石田牧師夫妻の健康が1日も早く快復しますように。

うれしいことに最近のJOYチャペルの礼拝では、赤ちゃんの声が聞こえてきます。「礼拝の大切な時間、子供や赤ちゃんの声で遮られて大切な礼拝メッセージへの集中が切れて困ります!」 とはJOYチャペルでは考えません。
教会の礼拝は静粛な時、神聖な場所、厳かにしめやかに行われるものというイメージが強いかと思います。しかし、JOYチャペルの礼拝は、セレブレーション=祝祭のときです。毎週日曜日に、赤ちゃんからご高齢の方たちまで、喜びを分かち合い、ともに祝い、神様に感謝し礼拝します。そんな中に子どもたちや赤ちゃんの声が溢れているのは、本当にうれしいことです。

ルカによる福音書 18章 16,17節
イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。
神の国はこのような者たちのものである。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、
決してそこに入ることはできない。」

私がバプテスマ(洗礼)を受けたサンフランシスコにある日本人教会の牧師は、私に手紙を送ってくださるときには、かならず「我らの宝、⚪︎⚪︎兄弟へ」と書いてくださいます。バプテスマを施した牧師は、信仰の親として、私を「宝もののように大切な存在」としてとみてくれているのだなあと、いつも温かい気持ちになります (^^)

by しん1

◆受難節(レント)は四旬節とも言われ、イースター(復活祭)前の6回の日曜日(主日)を除いた40日間を言います。受難節の始まる水曜日を灰の水曜日と言います。今年は、2月10日(灰の水曜日)~3月26日(土)がその40日にあたります。この40日間の設定は、イエス・キリストが体験された荒野の試練(マルコ1:12~13節)の40日間の断食に由来しています。
「40」という数字は旧約聖書の中でも特別な意味を持つ数字です。
・モーセは民を率いて40年間荒野をさまよいました。また、イスラエルの民と神との契約を結んだ後、シナイ山に登り、40日40夜過ごした。(出エジプト24:18)。
・ヨナはニネベの人々に40日以内に改心しなければ街が滅びると預言しました(ヨナ3:4)。
・預言者エリヤは40日40夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた(列王記上19章8節)。

◆受難節の40日間はそのような伝統に従い、クリスチャンにとってはイエスの十字架上の死をしのび、復活の喜びを祝うまでの準備の時として、4世紀のはじめ頃から、この40日間が守られるようになりました。現在多くのプロテスタント教会では、神に対しての祈り、自分自身に対しての節制(断食や祝宴の自粛)、他人に対する慈善の3つが受難節の精神であるとして教えられています。

◆私たちもこの受難節の時、聖書に記されているイエス様の十字架への受難の道を辿りつつ、感謝と悔い改めの祈りを奉げつつ、共に過ごしましょう。

松﨑 準

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