聖   書 : マルコによる福音書 3:1~6

メッセージ : 「イエスの眼差し」

 

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ハレルヤ!

イエスは死んで3日目に蘇る、このみことばの重要な箇所を、深く捉えることが出来ないまま、6年前のイースターの日にバプテスマを受けました。
奇跡を起こす力を持ったイエスを読み取るのではなく、この奇跡のたとえが、我が身に起こり、その深い意味を知るところまで運んでくださるのがイエスの愛の業と知った6年だった。

高い険しい山に登ると言うことは、孤独と恐怖を受け入れることが引き換えになる。
山に登るようになってから、自然は美しいものでもあるが、息が止まるほどの恐ろしさも与えられることを体感した。

リュックに背負える持ち物と体力だけが我が身を守る。

穂高、槍ヶ岳、蝶ヶ岳、常念岳といった上高地周辺の山々では、分厚い雲がいきなり頭上を覆い、雹や雷を引き連れ山肌を叩き付ける場面に遭遇した。地上で見る稲妻ではなく、土の上をスパークする光りが走るのだ。那須山や桜島では靴底から熱を感じ取りながらの歩行であったり、由布岳や別府の山々は今この瞬間に大爆発を起こしてもおかしくない中、接近した。
火口に近づけなかった阿蘇山は、ヘリコプターに乗って、沸き立つ湖からの噴煙を見降ろした。
標高2500メートルあたりから、森林限界が現れて、植物がなくなれば、宿る生物も見当たらなくなり、地球と宇宙のかすかな摩擦音が鼓膜を支配する。
マウナケア山頂に到着した時には、二酸化炭素が吐き出せなくなった。笑ったり喋ることが苦しくなった。

しかし、これら激高に近い叱りを受けた後に来る、宥めの美しさ、温かさ、寛大なものは、全身全霊で主に身を委ねることをせずには訪れないものだろうか...

私は、2010年4月4日のイースターにバプテスマを受けて以来、家族、友人、仕事、あらゆる場面で山の頂に向かう途中の、自然の脅威に似た遭遇をしてきた。そして、その出来事ひとつ一つに無になっていく自分を見た。

3日目に蘇ることは出来ず...未だ仮死状態として呼吸が続いているような気がする。

終わってもいないし、主の宥めも頂けてはいない。祈りを深く持つために私に与えられた境遇なのだ。
私自身の復活への歩みは、経験した登山のどの山よりも高い...。

by MxM

今週の一面『 Happy Easter !!!』 3/27  

Shin1

イースターおめでとうございます!
 キリストの復活を感謝をもって共に喜びましょう!

◆今日は、全世界でイースター(キリストの復活)が祝われています。
「イースター」は、日本ではほとんどなじみがありませんが、世界では約3人に1人(世界の人口の30%がキリスト教徒)がこのイースターを喜びの出来事として祝い、大切にしているのです。

◆キリスト教会にとって、イースターはクリスマスと並んで、あるいは、それ以上に重要な意味があります。「キリスト教の信仰とは、復活信仰だ」と言っても過言ではありません。イエス様の誕生が記されていない福音書はあっても、イエス様の復活が記されていない福音書はありません。つまり、復活したイエス様について書き記すのが聖書における4つの福音書の本来の意図であったのです。故に、イエスの復活はまぎれもない事実です。そして、イエスの復活が教会の基礎となり、信仰の根拠となったのです。

◆ではなぜ、そんなに重要なイースターが日本ではなじみが無いのでしょうか。その理由として考えられるのは、①「復活」とか「死人のよみがえり」という事柄が、あまりにも非現実的であること。②イースターは、クリスマスのように日付が固定されていないということ。クリスマスと違いその年によって日付に最大1ヵ月ほどズレが生じます(春分の日の後の最初の満月から数えて最初の日曜日と定められている)。

◆聖書に、このようなイエス様の言葉があります。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25~26)。
 すべての人間は、地上の生命が終わり、必ず「死」を迎えます。しかし、イエス・キリストの復活によって、「死」が一切の終わりではなく「死」の向こうに確かな希望が与えられたのです。キリストの復活こそ、「罪」と「死」からの解放であり、全人類に与えられた勝利なのです。キリストを「救い主」と信じるなら、私たちもキリストのように、永遠に新しい命に生きることができるのです。                    

松﨑 準

今週の風景 No.463  

管理人
イースターでした!

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