〜オリーブの香り〜No 197『手紙』

Shin1

この季節になると思い出す光景がある。
九州は博多駅のホーム、寝台列車の出発前に、別れを惜しむカップルの姿があった。どちらかが、進学か就職で上京するのであろう。40年前の若者たちは、人前でいちゃいちゃすることもなくわかれ際に握手するぐらいだった。それでも、発車した列車が遠ざかるまで手を振り続けていたという小説みたいな光景が繰り返されたものだ。そんな二人をその後結んでいたのは、手紙だった。携帯電話もパソコンも無い時代、お互いの気持ちを思い切り伝えるのは手紙だけだった。当時の固定電話は、家に1台、下宿に1台で、とても気持ちを伝えあうような会話はできなかった。

若い時に、或る女性から200通近くの手紙をもらったことがある。多分、私も100通近い手紙を出したと思う。
手紙を出すと返事が待ち遠しく、ポストの中を一日何回ものぞき込んだ。手紙がくると、ドキドキしながら封をきった。何回も読み直し、行間の中にある相手の気持ちを必死で読み取ろうとしたものである。もちらん手書きだから、時として何度も書き直すようなこともあった。或いは、もらった手紙の文字で相手の気持ちを推測するようなこともあった。

聖書にも「手紙」が沢山あるが、このような気持ちで読んだことはないということに気がついた。例えば、コリントの信徒になったつもりで、言い換えるとパウロが私に書いた手紙と言うつもりで読んだことはなかった。

改めて、そんな気持ちで読んでみた。いきなり叱責を受けた。わかりました、わかりましたからこれ以上叱らないでくださいと言いたくなるくらい、パウロは繰り返し、言葉を投げつけてくる。行間に、パウロの熱い気持ちが汗となって飛び散っているのを感じる。パウロの背後にある神の圧倒的な力、サウロを回心させたあの力を感じる。最後まで、「目を覚ましていなさい」と叱咤激励される。
さて、私がパウロに返事を書くとしたら、どのように書くだろうか。今後、しばらくの私のテーマになりそうである。

さて、若い頃のその手紙を改めて読めるとしたら何か怖い気持ちになる。焼き捨ててしまいたい手紙もあれば、ずっと保存したいものもあるだろう。しかし、それらの手紙は所在不明である。ちなみに、或る女性とは妻のことなのだが。おーい、どこに隠してあるの?

Byとうちゃん

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