テレビのニュースで熊本の被災地にあるクリーニング屋さんを取り上げていた。街の中の個人経営のお店。母と息子で営んでいる。震災で、店舗兼住宅は半壊。とても住めない状態。それでも、すぐに店を再開。シャッターは開かない。「営業中です」という張り紙で、やっと店が開いているとわかる。お客さんが来るたびにゆがんだシャッターの隙間から店に出入りする。「お客さんのものを預かっているから」、「取りに来た人が閉まっていたら困るでしょう」という理由。夜は、自宅駐車場の車の中で寝る、食事も駐車場でとる。そんなにしてまで営業する姿が、地域の人を励ましている。
しかし、夜暗くなり、車の中で寝るとき、涙を流す。この先どうなるのだろうという不安、また大きな地震がくるのではという恐怖。
熊本の黒川温泉の小さな旅館で働いている娘、幸い旅館は大きな被害もなく既に再開。熱心なリピーターが応援も兼ねて来てくれて、29日、30日と満室だった。地震の後、再開に向けて従業員が一丸となって、一生懸命力を合わせて汗を流し、様々なキャンペーンにも取り組んできた成果。
地震の直後、怖いと言った娘、逃げ出したい気持ちと必死で戦っていると、泣きながら電話してきた娘。何日かたっても、昼間は、大丈夫だけど、夜になると不安と恐怖があると。
被災した人、また現地で支援している人もみんな同じ気持ちだと思う。今夜は大丈夫かと、この先どうなるのかと。
大学を出た後、8年間仕事をし、暮らした街。多くの友人や知り合いがいる街。社会人をスタートし、結婚生活を始め、子どもを育て始めた地。人ごとでは無い。震災後しばらくTVの画面に釘付けだった。自分も体調がおかしくなった。夜中に何回も目が覚めるようになった。
そんな私に与えられた聖句。
「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(創世記1:4~5)
一日でさえ、闇で終わることはなく、必ず朝が来るのだ。必ずこの闇を突き抜けていつか勇気と希望に満ちた朝がくると確信している。祈りつつ、多くの人と心と力を合わせながら、自分ができる支援を丁寧に、着実に行っていきたい。
By とうちゃん
今週のディボーション① 使徒言行録23章
◆「絶対に無理、そんなのあり得ない」と思われるようなことは私たちにもあります。このときのパウロは正にそんな状況の中に置かれていました。しかし、真夜中にパウロは主の声を聞きます。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(11節)。「ローマで証しをする?ローマどころかエルサレムで捕われているのに...?」、人間的(現実的)に考えれば、「そんなのあり得ない」ことです。しかも、パウロはユダヤ人たちの陰謀によって殺さることになっていたのです。「ところが...」(16節)、その絶体絶命の中に神様の介入があり、パウロは安全に次の道へと導かれていくのです。
◆「私たちは神が天地の創造者、支配者であると信じている。なれば、私のために神が働くことを期待すべきではない。私が神の御用をしていくとき、神の御力にふれるのである。ご自身のお声を聞いて従っていく者のために、神は天も地も用いて御業を進めてくださる。自分は神の御用をするにはふさわしくない、と十分に知りながらも、神がいま自分を用いてくださるのだと神に聞き従っていくときに、『ところが』という世界が開かれるのである。」(一日一章より)
◆私たちが自分の常識という狭さの中で何かを考えるのではなく、神様の無限の広さの中で考え、祈り、そして、主に委ねていくときに、この「ところが」という奇跡が起こされるのです。「地を相手に生きる」のではなく、パウロのように「天を相手に生きる」歩みへと変えられたいと思います。