今週の一面 『 土の器として 』 9/18

Shin1

Ⅰ列王記17章に預言者エリヤが登場します。
◆エリヤは主から悪王アハブのもとに遣わされ神のことばを伝えます。しかし、そのまま戦うのではなく、「ここを去って、ケリテ川のほとりに身を隠せ」と静まることを命じられます。ここに宣教に備える主の訓練を見ます。私達も主に用いられるに先立ち、主からの訓練を受ける必要があります。

◆私達は生活の中で色々な闘いに直面しています。その課題の大きさと、時間のなさ、無力さに心が騒ぎます。しかし私達にとって最大の敵は、生活課題を通して忍び込んでくる霊的闘と言えるでしょう。

◆私は23歳で父を亡くし、それをきっかけに母がアルツハイマー病になり、大学4年の時から困難な介護生活が始まりました。当時は介護保険もなくデイサービスなどの公的サービスもない時代でした。しかし最もきつかったのは自分自身の心の内に沸いてくる、怒り、悲しみ、汚れた思い、そして愛のなさと孤独感との闘いでした。

◆エリヤがケリテのほとりで、汚れた鳥の象徴であるカラスや、シドン人(異邦人)のやもめに養われなければならなかった人生の経験というのは、それまでの彼のプライド、常識、価値観が打ち砕かれていくものでした。 
「自分はできる」という自信が打ち砕かれ、主のみことばにすがるほかはない自分に砕かれ切っていく必要がエリヤにもありました。

◆そこを通ることで、生きて働きかけて下さる神様への全き信頼が養われていきました。そしてこれこそ、神の御力を注がれる上で必要なことでした。私も母の介護を通る中、自分の死と生ける神様の御臨在を体験させられたのでした。宣教とは、砕かれて死んだ私が、今は主の内に生かされている喜びを届けていくことに他ならないと言えましょう。

酒匂キリスト教会 勝俣慶信牧師

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