◆若者と大人は調和できるでしょうか。また、何をもって調和と言えるのでしょうか。歴史はそれが容易でないことを証明しています。古代エジプトの碑文に、すでに「今の若者は困ったものだ」という意味のことが書かれていたそうです。聖書における若者が見せた悪い例を見てみましょう。
「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し...」(出エジ1:8)
◆ヨセフはヘブライ人でありながら、エジプトにとって国家的な大恩人でした。そのヨセフを知らないというのは、この新しい王が歴史を知らない、いや知ろうとしない、先人たちの業績に無頓着な人物であったということです。その結果、この王はヘブライ人を奴隷のように扱い、彼らが強くなるのを恐れて男の子の抹殺を図るなどの暴挙に出ます。それは、過去を学ぼうとしない、先輩たちに対する敬意を欠いた姿勢がもたらしたものと言えるでしょう。若い人は、年をとった人たちのやり方を批判し、自分たちのやりたいようにする。それが若さです。しかし、それがどんなに素晴らしいものであっても、これまで教会をたてあげてきた先輩たちに敬意を持たないでよいことにはなりません。
◆次に、聖書における大人が見せる悪い例を見てみましょう。
「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。」(Ⅰテモ4:12)
◆パウロは、若いテモテにこのように教えました。パウロはテモテの先生です。しかし、この先生は生徒(弟子)であるテモテに敬意を払っています。パウロは、人は年が若くても軽く見られることなく、人々の模範にさえなれるのだと考えていたからです。
◆若いということは経験の不足を意味し、未成熟ということです。テモテのように教えられなければなりません。しかし、若い者はダメだ、と決めつけ、その可能性を引き出そうとしないとしたら、それは大人の傲慢であり、敬意の不足と言うほかありません。
◆教会の中で、若者が大人を尊敬し、大人が若者に敬意を払うなら、そこに調和が生まれます。教会には若者と大人のどちらの存在も必要なのです。そして、「若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2:17)とあるように、若者も大人も、共に聖霊に導かれ、一致して祈るならば、教会において調和と力強い働きがみられるようになるでしょう。