~オリーブの香り~ No 227 『福祉とキリスト教』

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障がい者は「生きる価値がない」と多くの方々が殺傷されたやまゆり園の事件はショッキングな出来事でした。明治時代以降、社会福祉の領域で先駆的な働きをしてきたキリスト教でしたが、それはどんな人間であろうと、一人ひとりは、神様に作られ、愛された存在であること、例え敵であっても傷ついた人を避けて通れない隣人愛の精神(良きサマリア人の話)に基づくものでありました。そして、現在の社会福祉の考え方や制度の基盤にキリスト教の考え方が色濃く反映されていることも事実です。

牧師であり、社会福祉事業に取り組んでいる佐々木炎氏は、こう語られます。
「なぜ私たちはそうやって、(障がいがある方や介護が必要な高齢者)の一人ひとりの意向に耳をかたむけているのでしょう。それは、その志や意志こそが神様から与えられているからなのです。その人のただの思いつきではないのです。私たちの外から、その人の魂に向かって神様が命を与え、命とられるまで一人ひとりの物語を作り、導いていくのです。だから私たちはその人と共に歩む、一緒に生きて関わっていくことがキリスト教のケアです。そのことが個別性を生み出し、その人らしく生きることを支えていくことにつながります」(賛育会での講演から)

福祉の世界に身をおいていると、様々なケースに出会ったり、立ち会ったりします。その一つひとつが本当にドラマです。そのような時、当事者から関わることを拒否されることもあります。「なんで私がこんな目にあうの!ねえ、どうして!」「あんたなんかにはわからない」と言われます。すべては神様のご計画というけれど、「そんなのありか!?」と考えられない「人生の流転」を聞くこともあります。

単に身体的、社会的な痛み(障がい)だけでなく、精神的な痛みや魂の痛みに触れながら耳を繰り返し傾け、やっと関係が作れる世界でもあります。支援する側が、自分の無力さにうちひしがれることもあります。けれども障がいがあろうと、どんな境遇にいようと、ほとんど体が動かなくなっても、一人ひとりは神様が作られた大切な存在、その人らしく生きていけるようにと願ってやみません。

そのような中で、関係者は、立ちすくむしかない様々な状況の前で、「具体的、現実的な支援を生み出す努力を利用者と共に重ねながら、共に祈る行為にどれだけ助けられ、救われ、慰められ、恵みの尊さを深くかみしめる日々」(山崎美貴子氏「日本キリスト教社会福祉学会通信100号記念企画」)なのです。一人ひとりの命が輝くように、その人らしく歩めるように、神様の祝福と多くの皆様の支えの祈りがあるように願います。

By とうちゃん

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