今週の一面『~教会の調和④~』 11/20

Shin1

     それぞれが与えられている賜物の調和

◆「見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」
(Ⅰコリント12:24)

◆パウロは、教会の調和を、人の体に譬えています。この前後の12章~14章を読むと分かりますが、そこには「賜物」のことが書かれています。調和とは、教会における賜物の調和であるというのです。体の部分々が、見事な調和を保っているように、教会の一人一人の賜物が調和すれば、それだけ教会は健全でバランスのとれた状態になるのです。「賜物が無い人」はいません。1タラント、2タラント、あるいは、10タラントの違いはあっても、ゼロという人いません。そして、「賜物にはいろいろありますが、」(Ⅰコリント12:4)とあるように、賜物には様々なものがあります。

◆パウロは、体の中でほかよりも「恰好が悪いと思われる部分」と「見栄えの良い部分」について言及しています。教会の奉仕には、目立つものと目立たないものがあります。説教や奏楽、あるいは、リーダーとしての活動などは目につく働きです。逆に、お掃除や誰かの支えとなることなどはあまり目につかない働きかも知れません。もし、目立つ働きだけが称賛される教会であるならば、それは賜物の調和を欠いている教会ということになります。なぜなら、「神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて」(12:24)とあるからです。

◆そして、それぞれの奉仕・賜物を結びつけ、一つとするものは「愛」である、とパウロは言っています。どんなに優れた賜物があってもそこに愛がなければ意味がありません。「愛」は、体の器官と器官を結びつけ、調和させる血液である、と言うことができます。

◆「神は自然の中に色々な木を植えたように、人の中にも色々な才を配した。だから世界一立派な梨の木も、ごくありふれた林檎を実らせることはできないし、最も傑出した才能も、ほかのごくありふれた才能と同一の結果を産むことはできない。」(ラ・ロシュフーコー)

松﨑 準

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