昨年の大晦日 故郷に戻って 二人の母と過ごした。昼間 弟の運転で母の生まれた村にある肉屋へ正月用の買い出しに行った。記憶も意欲も薄れてきた母との外出は久々。
車窓の景色に見入っているとカーラジオから賛美歌が流れてきた。「アメイジング・グレイス」。解説する人が「グレイス」とは、と語り始めた。母と姉がクリスチャンというこの人は「グレイス」を「恩寵」と訳した。「音調」じゃありませんよと念を押しながら。昨年のクリスマスイブでは「恩寵」を「驚くばかりの恵み」と歌った。
教会に通い始めた頃、この曲の作者ジョン・ニュートンが奴隷船の船長だった過去を持つと知った。大嵐の中、奇跡的に命が助けられた時、神様の恵みの大きさに目が開かれ、奴隷廃止運動のために働くものに変えられたという。そうと知って歌詞を読み返すと一言ひとことが迫ってくるように感じられる。

驚くばかりの  恵みなりき
この身の汚れを  知れる我に

恵みは我が身の  恐れを消し
任(まか)する心を  起こさせたり

危険をも罠(わな)をも  避(さ)け得(え)たるは
恵みの御業と  言う他なし

 夜、姑を訪ねた。うちの娘家族も来ていて久しぶりに孫とも会えた。「クリスマスの劇でね、天使になったとよ。ガブリエルっていうと。」と手を上げてセリフを言ってみせる。えっ、ガブリエル!? 55年前、お菓子欲しさに通った教会で一度だけ出た劇、私も天使ガブリエルだった。故郷に立つ同じ教会の、同じステージで! 驚くばかりの「恵み」が、こんなところにも。 
 いくつになってもバタバタと落ち着かず自分中心で人目ばかりが気になる私を神様は教会に招いてくださり、祈ることを教えられた。聖書を通して本当の愛に触れさせてくださった。
 「あなたがたは恵みにより・・・・・ 救われました。
  このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です。
  行いによるのではありません。」(エフェソの信徒への手紙2:8~9)   

by おたね 

◆昨年11月、天城山荘において、小林洋一先生(西南学院大学名誉教授)の旧約学セミナーがあり参加しました。三日間の講話と分かち合いを通して、私は、魂が聖められる思いでした。
講話の中で先生は、詩編86編から、「神の本質について」語ってくださいました。
「主よ、あなたは情け深い神、憐れみに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ちておられる。」(詩編86:15)

◆神は最初から最後まで、人との関わりが一貫して変わらない真実な方である。神は、人が道をそれることのないように、預言者たちに裁きの預言をさせているが、救うために本当に人と関わってくださる。

◆ヨセフ物語(創世記37~50章)の中で、ヨセフは数奇な運命を辿るが、神はどんな事も良きに変えてくださる方であることが聖書で証しされています。

◆私たちの人生には「どうして」、「なぜ」という出来事が次々と起こるが、最後には、神は天国へと導く道を備えてくださる方なのです。今日、世界各地で様々な動きがありますが、今後も主に希望をおいて主を賛美し、主を信じて従っていきましょう。

神山 武

教会の礼拝、と聞いて、どういう光景が思い浮かびますか?

私が初めて、教会の礼拝に参加したのは、およそニ年半前ですが、
当時の私の礼拝イメージは、パイプオルガンが鳴り、牧師がメッセージをする、
静かにしていなければならない厳粛な場所、というイメージでした。
当時、まだ生後半年の娘を連れて行っていいものだろうか、など色々と考えていた気がします。

ところが、実際に行ってみると、イメージとは真逆に近い教会でした。

賛美の奏楽は、ギターやドラムなど、教会にあるはずもないようなもので行われ、
礼拝出席者みんなでパワフルに賛美し、礼拝中に、出席者同士で握手をする時間もあったのです。

最初は戸惑いしかありませんでしたが、それでも通い続けていくうちに、
その礼拝スタイルに惹かれていく自分がいました。
神様の御言葉に触れ、出席者みんなで分かち合い、お互いに励まし合う空気に触れることで、一週間の生活で疲れきった心に活力が与えられ、また一週間頑張ろう、と思えるようになっていました。
そのような体験をしていく中で、洗礼(パプテスマ)を意識し始め、教会に通い始めてから半年後、妻と一緒にクリスチャンになりました。

心に活力を与えてくれる教会へ導いてくれた妻と、妻を通して私を教会へ、
クリスチャンへと導いてくださった神様に心から感謝しています。

by Hiro

◆詩編第1編は、詩編150編全体の序文として置かれています。つまり、詩編第2編から第150編までがこの詩編第1編にギュッと凝縮されているということが言えるのです。その証拠に1節の最初の「いかに幸いなことか」の「幸いなことか」という言葉はヘブライ語でアシュレーと言い、ヘブライ語のアルファベットの最初の文字アーレフで始まります。そして、6節の最後の「滅びに至る」の「滅びる」という言葉はヘブライ語でトベードと言い、ヘブライ語のアルファベットの最後の文字タウで始まります。これは、詩編の最初から終わりまでのすべてを要約的に一つにまとめることによって人間の人生全体を包括的に表しているということなのです。詩編第1編の著者は二つの道(義の道と悪の道)を比べて義の道を歩むように勧めています。

◆2節に、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」とありますが、このような歩みこそ、義の道を歩むクリスチャンの理想的な人生と言えます。私たちの心には、イエス様を信じていると言っても、「悪い思い」や「罪の性質」は出てきます。主が私たちをご自身の栄光の姿と同じかたちに変えてくださるまでこの葛藤は続きます。しかし、二つの道のうち、「義の道」を選びとって歩むようにすることはできます。そのように歩む人は幸いだ、と聖書は告げるのです。

◆では、どうやってそのように歩むことができるでしょうか。それは、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ」ことです。「昼も夜も」とは一日中、という意味もありますが、昼のように人生が順調な時も、夜のような試練の中にある時も、という意味もあるでしょう。

◆「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(Ⅱテモテ4:2)とあるように、昼も夜も、時が良くても悪くても、御言葉を心に留める人は、やがて豊かな実りが与えられるのです。

松﨑 準

◆毎月1回、日立教会へ石田政美先生を派遣くださり、また、松﨑準牧師はじめJOY教会の皆さまのお祈りに感謝いたします。無牧師の日立教会が、今ここに立つことが出来ているのは、勿論、石田先生のお働きによるところが大きいのですが、先生との信頼関係を築いていく中で、何よりも聖霊の働きによって、このことが成されたのだと確信できたことを、父なる神さまに感謝しています。

◆さて人生を快適に過ごすために「断捨離」が注目されるようなったのは2010年頃からです。この年の流行語大賞にもノミネートされた、この「断捨離」とは、入ってくるものを断ち、要らないものを捨て、物への執着から離れる、ということです。

◆聖書に、イエスさまが弟子を選ぶ記事が出てきます。例えば漁師であったペトロ、ヤコブ、ヨハネたちは、イエスさまの招きに応じ、船を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従いました。徴税人レビ(マタイ)は、何もかも捨てて立ち上がり、イエスさまに従ったとあります。

◆捨てるという意味では同じように見えます。しかし、前者は要らないものだから捨てるのですが、後者はそうではありません。要るもの、むしろ働く場であり、生活の糧を得る手段であり一番必要なもの、それを捨てた、ということです。

◆2015年3月14日に、私を含め3名の兄姉と一緒にJOY教会を訪ね、石田先生へ月1回の説教と教会員への教会形成の指導・教育をお願いしました。この時点で、日立教会は、少なくとも次期牧師の招聘について、「捨てる」という決心をした、と石田先生は受け止めてくださったのです。

◆あれから約2年、石田先生の講壇支援、助言からスタートし、JOY教会から様々な励ましを頂きながら、私たちはここに立っています。今、日立教会は元気です。喜びを感じています。風が吹き始めました。この喜びをさらに広げていこう、そこに希望をおいて祈り続けようとしています。そうすれば、イエスさまは、捨てたものを加えて与えてくださると信じています。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、
これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)

日立バプテスト教会 井伊 肇

2 3

過去の記事