今週の一面『詩編22編(絶望から信頼へ)』2/5

Shin1

◆「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか...」(2節)という言葉は、イエス様が十字架につけられた時に、その苦しみの中で叫んだ言葉であると言われています。イエス様は十字架で神から見捨てられるという絶望を味わいました。

◆しかし、この詩編は、イエス様の十字架より千年も前に歌われたものです。ダビデは、神から見捨てられたかのような苦しみを味わいました。サウル王に命を狙われ、荒野をさまよった時もそうでした。また、息子アブサロムに王位を奪われた時もそうでした。このダビデの生涯というのは、王であったにもかかわらず、人々から裏切られ、見捨てられるという苦しみの連続だったのです。それはまるで、神の子であるはずのイエス・キリストが受けた苦しみと重なるように思われるのです。

◆例えば、17節~19節に、「犬どもがわたしを取り囲み...わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」とありますが、この「犬」とは異邦人を意味します。イエス様を十字架につけたのはローマの兵士、つまり、異邦人でした。そして、彼らは実際にくじを引いてイエス様の衣を分け合ったのです。

◆ダビデは耐えがたい苦しみを受けましたが、その後、王として復帰し、イスラエルの繁栄を受けることが出来ました。それ故、この苦難の詩編の最後は、主への高らかな賛美で終わっています。つまり、たとえ神に見捨てられたかのような試練があっても、必ず回復の賛美で終わるということを、この詩編は教えているのです。ダビデも主によって苦しみから引き上げられ、回復され、主を賛美しました。イエス・キリストも十字架の苦しみの後に、復活の栄光をお受けになりました。苦しみの後には、復活の栄光がある。これは神の法則です。ダビデは「絶望から信頼」を体験したのです。そして、イエス様ご自身も体験されました。そして、今度は、私たちイエス様を信じる者が体験する時なのです。

松﨑 準

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