ハレルヤ!

年明けて間も無く、多くの方が観賞された映画『沈黙』の舞台となった長崎を旅して来ました。

長年暮らしている横浜の文化と近しいことや、坂道の多い街並みには親近感を覚えます。父が勤務していた会社の造船所もあり、貿易港として栄えた経済の跡形も、横浜港のそれらと似ていて、キリスト教伝道の歴史の足跡もまた教会群の佇まいに、その息吹を感じる旅でした。

遠藤周作と言う作家は、私に奇妙な人生の印影を付けた人物です。
結婚前、夫の実家に遊びに行った時、2センチほどの埃に埋もれた倉庫の書棚から、『海と毒薬』『私が棄てた女』そして『沈黙』の3冊を見つけて読んだのが、遠藤周作文学との最初の出会いです。

その後、何冊か立て続けに読みましたが、ある一冊の本の帯に、我こそは悪女、本当の悪とは何かを言える人を募集しています、と印刷された内容が付帯されいました。クリスチャン作家が、随分と面白い挑戦状を贈るなぁと、闇の奥底に隠されたものを暴露する悪人などいるのかしら?と驚いたことを覚えています。
数年したら、今度は劇団『樹座』団員募集の記事を何かで知り、光の中に人を誘き寄せるなんて面白い!子育てがひと段落ついたら、応募してみようかしらと考えたものです。
結局、どちらも挑戦しませんでしたが、悪の正体について考えることも、光の存在について証明することも、当時の自分は怖気付いていたのだと思えます。

長崎の旅では、遠藤周作文学館に立ち寄りました。この日は快晴で、紺碧の空と海のロケーションが、建物の向こうに広がっていて、穏やかで静かな海にもてなされた気分でした。

『人間が こんなに 哀しいのに 主よ海があまりに 碧いのです 』
沈黙の中の一節です。
スマホに収められた風景は、まさにこの言葉のまま。

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ところで、遠藤周作の投げかけた問い、悪の正体についての回答ですが、自分の命が半世紀の時を刻み、その頃にはなかった経験を踏まえて答えるならば...決して、悪について語らない、心の奥底に眠っていようとも、主に向った祈りにより目覚めることはないのだと、置き換えたいと思います。

by MxM

今週の風景 No.507  

管理人
昨日礼拝後から遅くまで出かけていたのでUP遅れました。
急に真冬に戻った冷たい雨の日曜日でした。

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先週の日曜日に移動本屋さんが教会に来られて、その時に見た本がとても気に入ったのですが、その場では買わず(1冊しかなかったので真っ先に買ってしまうと他の人が見れなくなるなぁ〜と思って)その場で「amazon」で購入しました。

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翌日には届いて、ゆっくりと解説文章と写真を読みふける、とても充実した週になりました。
現地の写真があると文章だけよりもイメージがとても湧いてくるので味わい深く、料理を美味しくいただける感じです。

数年前(2012年)に発売されたPENでエルサレムが特集された号
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この時も、写真画像でリアルな聖地をこの目で見たいと思って買ったのでした。

朝デボーションをして活動開始しますが、夜寝る前の時間、翌日に向けて思い巡らさないようにするには、ゆったりとリラックスして神様との時間を作るのが良いのだと最近思いついて、このような過ごし方をするようになりました。
気になることを考えないようにするのではなく、他のことで頭を埋め尽くせば良いのであれば、私たちは神様との時間を作るのが一番ですね!

一度は聖地旅行に行ってみたい!
きっと、その場に立ちつくして泣いちゃうんだろうなぁ〜

今週の一面『力の祈り』3/26  

Shin1

3月14日(火)午後、私は、「相鉄線沿線なかよし牧師会」に出席しました。会場は、City Vision Glory Church(旭区上川井町)で、和食ファミリーレストランを買い取って改築した教会です。決して交通の便が良いとは言えない場所にあるにもかかわらず、礼拝出席人数が平均150名と聞き、驚きました。
 牧師会では、各教会の近況報告や証しを分かち合うとともに、一つのテーマに基づき学びをします。今回はCVGCの増田先生が「祈り」をテーマに発題されました。私は「祈りの実践」について神学校では学びませんでしたので、今回の学びは自分にとって大変重要な学びとなりましたので、以下、紹介します。

 「力の祈り」には、3ステップがある。
取り除く祈り
神様と私たちとの間を隔てている罪を先ず取り除く。
❶悔い改めの祈り...思い起こされる罪を告白し、悔い改める。
❷へりくだりの祈り...自分の弱さを認める。自分の心の王座を神様に明け渡す。
❸魂肉の障害要素を取り除く...心の傷、怒り、恐れ、疑い、心配、傲慢、自己中心、プライド等は、悔い改めるだけではなくならないので、神様の力(イエスの血潮、イエスの御名、聖霊の火)により外に出さなくてはならない。

聖霊に満たされる祈り
咎が取り除かれた心に聖霊をお招きする。黙想しながら、聖霊のご臨在を肉的に、霊的に、そして、心で感じるように集中して祈る。

聞かれる祈り
 言った通りになるとの信仰。自分の祈り(言葉)ではなく、聖霊が代わりに祈ってくださると感じながら祈る。「...なりますように」ではなく「...なれ!」と祈る。具体的、現実的なことを詳細に祈る。

※以上のようなステップで、一日20分以上祈ることが大切です。
 私は日々実践していますが、心がスッキリし、何よりも神様の前に素直になれるような気がします。心からすべての咎を取り除いていただき、聖霊で満たしていただき、聖霊によって祈る。こんな習慣が身につけば、私たちの信仰はより純粋なものになるでしょう。毎日できなくても祈りは積み重なりますから、諦めずに自分のペースでやってみてはいかがでしょうか。

「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1,2)

松﨑 準

生活をしていると、人に話したくなること、相談したくなることってありますよね?
私は比較的少ない方ですが、それでも話したくなることはあります。
嬉しいことのおすそ分け、愚痴、悩み相談 etc

そういうときに、話し相手になってくれる人はどれだけいますか?

さらに質問します。
そういうときに、『心から』話せる人はどれだけいますか?

この、『心から』というのは、相手がそれを聞いてどう思うか、などを気にせず話せる、ということとして考えてみてください。

私は『普通に』話せる人はそれなりにいます。
しかし、『心から』話せる人は、片手で数えるほどしかいません。
特に私は自分のことを話すのが苦手で、妻にも自分の気持ちを伝えられるようになるのは時間がかかりました。

ただ、一人だけ、出会ったその日から、『心から』話せる人がいました。
それが主なる神様です。

神様はすべてを受け入れてくださいます。
むしろ、神様はすべてをご存知ですから、回りくどい言い方をしたり、隠そうとしたりしても、すべてお見通しなのです。

私のことをここまで知っておられる方が常に寄り添ってくださっていることほど心強いことはないと、改めて感じました。
これからもその恵みに感謝しつつ、日々の生活を送っていきたいと思います。

by Hiro

今週の一面『複眼で見る』3/19  

Shin1

◆ある牧師が、大きな悩みをかかえた会員に牧会していました。牧師はこの一人の人に大変精力を注いでいるのを聞きJ牧師が次のように語られました。

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「牧会では、どうしても、一人へ傾く。時にそれが他の99匹にとって不公平と思えるほどの偏ることもある。これは『いと小さきものへの集中』なのです。」言われた牧師は、残念そうに『実は、今深刻に悩んでいるのは、自分が関わっている人ではなく、その人の配慮者の方なのです。』と。牧会者は全知全能ではない。どうしても一人に集中せざるをえない。でも、その集中が妥当なのか、吟味する複数の眼が必要なのです。
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◆万人祭司・共同牧会という事柄の一側面は、この「複眼で見る」という視座に立った教会形成を目指すということであると思います。

◆福音書は4つ私たちの手元に残されています。聖書自体が一つのイエス・キリストの出来事を4つに「複眼で見」ているのです。あるいは聖書は66巻あります。聖書自体が66通りの傾きで私たちに迫り、私たちを牧会し続けて下さっているのです。

◆聖書に立つ信仰に生きる私たちは、複眼で見て一つの事柄を判断し、一人づつが、一人づつに傾く。その時、多様性における一致、「キリストの体」が下から形成されるのではないでしょうか。(I.コリント12章参照)

石田政美

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