今週の一面『「多様」における「一致」』3/12

Shin1

 「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」
(Ⅰコリント12:12)とパウロが語っています。
「体」=「教会」、そして、「部分」=「私」です。体にとって一部分でも欠けたら困ります。
また、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(Ⅰコリント12:26)とあります。小指の先をちょっと怪我しただけでも体全体に力が入らなくなることがあります。でも、治れば体は元気になります。これが、本来あるべき教会の姿だとパウロは語っています。
 「教会を構成している『多様な一人ひとりの尊重』は、バプテストの教会形成における命でありエネルギーです。しかし、その多様な一人ひとりがキリストの福音を体現する『一つの体』を形作っていくために、どこで『一致』していくのか。牧師の強力なリーダーシップや戒めの遵守で『一致』をつくるのではなく、『多様な一人ひとり』が聖書を開きながら、『キリストを必要とし、他者なしに生きえない自分』を見出してゆく、祈りの深まりと成熟、試行錯誤のプロセス(途上)に教会の『一致』は与えられていくのです。」(『いま、バプテストを生きる』)
 イエス様が弟子たちの足を洗うことを通して(ヨハネ13章)、示されているように、私たちも互いに足を洗い合い、洗われ合う。すなわち、お互いの意見を聞き合い、赦し合い、仕え合い、そして、愛し合う。そのような謙遜が今、教会(私たち一人ひとり)に求められています。イエス様の教会には、私たち一人ひとりが無くてはならぬ大切な存在です。

松﨑 準

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