今週の一面『荒野の祝福(1)』8/27  

Shin1

◆神様は、ご自分の愛する民に、「なぜ苦しみを与え、荒野の道を歩かせるのだろうか」、「荒野の生活は祝福だろうか」という疑問が常にあります。

◆荒野は人が住めない所であり、見捨てられた地です。しかし、聖書の答えは、「荒野の中におられるキリスト」に出会うためであると繰り返し語ります。それゆえ、荒野は苦しみと共に、栄光の主がおられるのです。

◆ノアの箱舟が、どうして恵みの場なのでしょうか。あの狭い箱舟の中、外を見ることもできず、一年間数多い動物達と箱舟の中に閉ざされているのです。しかし、箱舟は洪水の間は一番安全な所です。箱舟の特徴は、かいもなく、帆もないということだけではなく、舵もなく羅針盤もないのです。箱舟は風の吹くまま、水に流されるまま行くのです。

◆しかし、その箱舟の航海士が神様であられるなら、それよりもっと安全な所があるでしょうか。ソドムとゴモラは安全な場所ではありません。かえって、見捨てられた荒野がより安全な所であり、神様に出会う場所なのです。

◆荒野にはキリストがおられるのです。その方は苦い水を甘い水に変えて下さり、天からマナを雨のように降り注ぎ、岩から泉を湧き出させます。傷ついた心を癒し、罪ととがを赦して下さる幕屋となってくださいます。また、道を失った人生の火の柱、雲の柱となって下さいます。荒野は祝福の地であり、恵みの地なのです。(続く)

石田政美

~オリーブの香り~ No 264  

Shin1

「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」(新改訳:レビ記19:32)

九州出身の同級生や同窓生が集まると、必ず話題になるのが、自身の健康と親の介護、それも九州の郷里で離れて暮らす親の介護のこと。また仕事柄、いろんなケースを見聞きし、相談が舞い込むこともある。

首都圏に暮らす60代の女性Aさん。84歳になる母は、九州の郷里で弟の一家と同居している。母は認知症。
その母が転倒から骨折し、入院。2カ月近くたつと認知症の症状が進んだのか、「早く家に帰せ」と病院の中で杖を振り回して暴れているらしい。弟はその対応で疲れ果て、自身も病いがあることもあって、退院しても母と今まで通り家で暮らすことは無理なのではと施設に入れたいと考えている。
とりあえず、九州の病院に駆けつけ、母を見舞うと自分の娘と認識できず、口をへの字に結び、ぼーっとしてテレビを見ている姿があった。ところが、リハビリ担当のTさんが通りかかると、笑顔で手をふるではないか。
その時、<Tさんは、母と接する時はいつでも、必ず床にしゃがんで、目を合わせ、笑顔でゆっくりと話すこと>を思い出し、「はっ!」と気づいたことがあると、Aさんは言う。

認知症の人は、わからないのではなくて、人一倍、人の気持ちの動きや感情、そしてやさしさや怒りに敏感なのではないかと。
また、「母が認知症になった!」「私のことを娘と分からなくなった!」「困ったものだ!」というけれど、「認知症になった」という状況の前で、そのことを受け入れられず、混乱して、困っているのは実は自分なのだと。

84歳の母は、敗戦の年に12歳。普通だったら10代の光輝いているはずのときに、敗戦後の混乱の中で、生きていくだけで精いっぱいだった。食べることに必死だった。結婚して子どもが生まれ、日本が復興していくのと合わせるように、必死に働き、子どもを育て、無我夢中で生活してきた。それはそれは、悩み、苦しむことも沢山あっただろう。
今こうして、いろんなものを忘れたり、わからなくなっても、或いは周りからは自分の世界だけに入りこんでいるように見えても、本当に必要なものだけを見つめて、他人にとっては迷惑でも本人にとって不要なものを捨てて、何が悪いのか! ゆっくりと自分とむきあっているのかもしれない、神様とお話ししているのかもしれないではないか。
改めるべきは、自分なのだと。

聖書は、人の最初から最後までを心から大切にされている神の姿と言葉を伝えている。
「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(新改訳:イザヤ書46:3-4)

By 父ちゃん

今週の風景 No.527  

管理人
夏休み最後の日曜日。
石田牧師によるヨセフ物語の大逆転のシーンでした。
自分に起こる良いことも賞賛されることにも、全ては神様の恵み、祝福、摂理が働いていることによるものだと謙遜に、感謝して生きていきたいものです。

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先日、娘も連れてカラオケに行きました。
いままでも何回か連れて行ったことはあるのですが、
今回は初めて娘も自分で歌を歌いたいと言い、
みんなで楽しく過ごしました。

娘は小さい時から歌が好きで、教会の賛美歌の歌詞もいくつか覚えています。
カラオケでは賛美歌は歌いませんでしたが、ふと彼女が歌っているのを聞いた時に、
祈ることができなかったとしても、賛美をすることでも
十分神様に届くのだろうな、と感じました。

歌にはとても不思議な力がありますよね。
気持ちをうまく言葉では伝えれらないから、歌にした、なんてことをドラマなどでよく聞きますが、
実際に歌にはそれだけの力がありますし、ストレス発散になったりもします。

疲れてしまっていて祈れない時に、代わりに自分の好きな賛美歌をめいいっぱい歌う、
そんなこともたまにはいいのかもしれません。
私もまだ自分の好きな賛美歌もパッとは浮かびませんし、
アカペラで歌うなどまずできませんが、一曲でもそういう歌を見つけて、
祈れない時に賛美できるようになりたいなと思わされました。

あたなにはそのような賛美歌はありますか?

by Hiro

◆以前イスラエルに行った時、ユダヤ教からキリスト教に改宗し、今は聖書の地理や考古学を研究しているという一人のユダヤ人が説明してくれました。

◆「ここは、かつてダビデがサウル王から逃げまどって、つらい日々を隠れながら過ごした荒野です。実は、そこから『荒野』というヘブライ語は、『ことば』からきたと思われます」と。

◆水もなく、動物も植物も生きられない苛酷状況の荒野。けれども、この極限の状態でダビデは神にのみ信頼すべきことを、特に神の「みことば」にのみ信頼を置いて生きるべきことを学んでいったのではないか、とのことでした。

◆人に頼らず、神にのみ拠りすがり、そのおことばが必ず成就することを信じて疑わず、ひたすらに待つ。

◆この得がたい信仰の学びを習得するのに、荒野はダビデにとって最善の場所だったのでしょう。

「サウルがペリシテ人討伐から帰って来たとき、ダビデが今、
エン・ゲディの荒野にいるということが知らされた。」
(I.サムエル24:1/新改訳)
石田政美
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