私は普段、滅多に人前で泣きません。
映画に感動してないたりはしますが、例えば悔しくて泣くとか、
嬉し泣きなどはほとんどしません。

そんな私ですが、この間教会で賛美をしているときに、勝手に涙があふれだし、止まらなくなってしまいました。
何が起こったのか理解できず、困惑するしかなかったのですが、
あふれ出る涙を止めることができず、ただただ、泣くことしかできませんでした。

最近の私は、現実のことに精一杯で、自分の信仰を見失いかけていました。
毎日、食事の前や不安があったときは祈るようにしていたのですが、
いつの間にかその祈りが決まり文句のようにただ口から出てくるだけで、心がこもっていなかったり、
まだまだ分からいこと、知らないことが多い中で、教会の奉仕をやっていていいんだろうかと悩んでいたり。

それらを取り戻すために何かをしなければ、と思っているのに、仕事などに追われてしまい、
その時間を確保できない自分に焦りや苛立ちを感じる中で、信仰そのものが見えなくなっていったんだと思います。

そんなとき、教会で『賛美礼拝』といういつもと少し趣向を変えた礼拝が行われました。
最初にいつも通り賛美をしていたところで、涙が止まらなくなってしまいました。

自分でどうにかする必要はない、ただ私を信じなさい
あなたは何も悪くない

そんな言葉を優しくかけて、神様が私を抱きしめてくれたのかな、と後から思いました。
信仰を持つ前の自分に戻りかけていたところを神様によって、改めて救われたのだと思います。

そっと寄り添ってくださる神様とこれからも歩んでいきたいと思います。

by Hiro

「主よ。この人はどうですか。」...「それがあなたに何の関わりがありますか。」

ヨハネ21:21〜22

◆他の人についての神の取り扱いに干渉してはならない。忠告する権限のない事を忠告してはならない。あなたの側でなすべき事は、常に神との正しい関係を保つことである。そうすれば、他の人を祝福するために、いつでもあなたを通して、神の洞察力があなたに臨むのである。(「いと高き方のもとに」より抜粋)

◆霊的に、自分が進歩をしていないように思え、周りの人に対しても、言葉で話さずとも、良き証し人となれているのか、疑問に思う事がある。そんな時、よくよく考えてみると、自分の思いや周りの人に対して、心が奪われている事を見い出す。こんなちっぽけな心に、沢山の思いは入りきれない。ならば、少なくとも、一番大切な事だけを心に思っていたい。

◆イエス様は、私達のなすべき事は、神との正しい関係を保つ事だと示して下さっている。罪を捨て、全ての心配も、人への思いも、自分の願いも主に委ねて、このちっぽけな心を、主への思いで満たして頂こう。そうすれば、あとは神さまが最善の時に、最善をもって、豊かな祝福で満たしてくださり、私達は神に出会うと、約束されている。

「心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」

申命記4:29

久田ゆかり

今週の風景 No.538  

管理人
今日は濱田兄によるメッセージでした。
メッセージ冒頭で今日の奏楽を担当していたユースチームによる特別賛美があったのですが、これが良くて良くて、ただただ感動してました。
歳をとると涙腺がもろくなる様で、ジワっと来てました。
もっと聴きたかったなぁ・・・。

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~オリーブの香り~ No 273『笑顔』  

Shin1

毎月、九州に住む母たちの所に帰る。姑は満身創痍ながら気丈に一人暮らしを続ける88歳。ひょっこりやって来る嫁のために、あんこ餅を冷凍して待っていてくれる。私の母は着々と認知症が進行中の84歳。私の顔を見ても「世話しに来た人」と気にも留めない様子で、大音響のテレビを見続けている。
 
ついひと月前までは一緒に買い物に行くと食べたいものを自分で選んで、かごに入れていたのに、今は「わからん」とつぶやいて手に取ることもなくなった。食べることも忘れている時もあれば、夜中にご飯とお菓子をガッツリ食べこんだりする。
 そんな母が肉屋のおじさんにかけたひと言に驚いた。「この頃はひとりで店ばしよると?奥さんは?」と普通に気遣いをみせたからだ。ガソリンスタンドを始めた父に19歳で嫁いで65年、商売に明け暮れた母の魂はしっかり保たれていた。そのことを家族に伝えると「肉屋の人、いっつも笑顔やろう。そやけんたい」と言う。確かに母が普通に会話する相手はみんな笑顔の人だった。
 
そんなやりとりの後、いつもの仕事に戻ってのこと。放課後の小学校の校庭で、さかんに注意されているA君、ひたすら友達を追いかけ回しては抱きつくことをやめない。何かにつかれたように友達を引き倒して抱きつこうとする。ふと思いついて「おんぶしようか」と笑顔で話しかけてみた。はじめは挑むような目つきになり、唾を吐きかけたりしていたが、こちらがニッコリし続けていると「何して遊ぶの?」と聞いてきた。そばにあった鉄棒に誘ってみるとぶら下がりが得意らしく、褒められるといつまでもぶら下がり続けている。笑顔で見つめている私に近寄ってきたA君が、「ぼくの力強いよ」とおばさんの私を背負ってくれようとする。むろんひっくり返りそうになりながら。

よくよく話を聞いてみると彼が抱きつきを求めたくなるような出来事が家庭に起こっているらしかった。どうしようもない不安の中にいたのだ。「わからん」とつぶやいて、まわりを唖然とさせる振る舞いの増した母も、A君も、なんだか訳のわからないことが起こり続ける不安を生きている。そんな人たちが「笑顔」に安らぎ、人と人とのつながりを取り戻していく。
 
どんな人であっても、神は人間を自分の似姿として創造され、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43章)と言われる。「笑顔」は、わがままで弱い人間に与えられた神様の贈り物。

「貧しい人たちに、命だって上げることはできます。しかし、微笑みを浮べてそれをしなければ、何も与えたことにはなりません。平和は微笑みから始ります。一日5回、あなたが本当は笑顔を見せたくない人に微笑みなさい。それを平和のためにするのです。何でもない微笑みが及ぼす効果には、計り知れないものがあります。温かい微笑み。妻に、夫に、子どもに、そして全ての人に微笑みかけなさい。微笑みは愛を育てます。」(マザー・テレサ)

By おたね

◆アドベント(待降節)を迎えました。教会ではアドベントから一年が始まります。新たな気持ちで主イエス様の誕生を待ち望みたいと思います。アドベントという単語は「到来」を意味するラテン語のAdventus(=アドベントゥス)から来たもので、「キリストの到来」を意味します。キリスト教においては、アドベントは人間世界へのキリストの到来、そして、キリストの再臨(ギリシア語のパルーシアに相当)と二つの意味を込めてキリストの到来を待ち望みます。

◆アドベントを過ごすにあたり、私は「キリストが来る」という意味について考えさせられます。私たちは神様に願いを祈ります。神様がすぐにでも答えてくださることを期待して...。けれども、現実には「待たされること」や「なぜ、この時に?」と私のほうでは思ってもないタイミングで神様の答えが来るのです。

◆長い間祈り願っていたことが、もう叶えられるはずがないと思っているときに「祈りは届いたよ」と言われても、すぐには信じること(受け入れる)ができないのではないでしょうか。ザカリアもそうでした。「その願いが聞き入れられた」そう言われたとき、素直に信じることができなかったのです。それゆえに彼に与えられたのは「沈黙」することでした。

◆聖書において「沈黙」の時は、「聴く」「神様との対話、自己との対話」「祈りへの備え」などの意味を含んでいます。「時が来れば実現する」(20)との神様の想いについてザカリアは深く考えさせられる時を与えられます。今、私にとっての「沈黙の時」の意味を深く思い考えていきたいと思うのです。

林 健一

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