◆最近、我が家はコーヒーメーカーが故障してしまい、新しいものを購入しました。とても美味しく淹れることが出来るので非常に満足していますが、一つだけ気になる点があります。それは今までのものより少し時間がかかるということです。それでも、私はこの製品が非常に美味しいコーヒーを淹れてくれると知っているので、多少時間がかかったとしても、出来上がりまで焦らずに待つことが出来ます。

◆さて、祈りについてはどうでしょうか?もちろん、神様は祈りに対して、最善をなしてくださる方であることを私は知っています。にもかかわらず、その時をひたすら信頼して待つことができず、早く祈りの結果を見せて欲しいと焦ってしまうことがあります。

◆今は早く結果を求められる時代です。スマートフォンで検索すれば結果はすぐに出てきます。しかし祈りはそういうものではありません。同じ祈りを変わらずに安定して継続していくこと、そして結果を焦らずじっくり待つことが大切です。思い浮かんだことを次々と祈ることも必要かもしれませんが、神様に祈り始めた課題を手放すことなく続ける、ということを今学んでいます。

「主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。」

詩篇119編65節(新改訳)

高橋利佳

今週の風景 No.559  

管理人
今日は澤田兄による信徒メッセージでした。
図解よくわかる!と言う雰囲気でとてもわかりやすいメッセージでした。
印象的だったのは最後に紹介してくれた詩の内容でした。

その内容を正確に書き出せないので、ざっくりと管理人の理解ですと、
自分の祈った(願った)内容は聞き入れられなかったけれども、祈った目的は叶えられた。
つまり祈りは神様の方法で解決されるのだから、自分の欲した解決方法ではなくてもいいんだ!
ということです!

20180527_01.JPG

今週の風景 No.558  

管理人
スッキリ晴れた日曜日でした。
「はじめの一歩」は、神様の働きによって助けられることを信じてまず祈ること。
気分もスッキリしました。

20180520_01.JPG

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)

◆教会の目的③は、大宣教命令です。
新約聖書の四福音書すべてに共通して、書かれている弟子たちを派遣するシーンです。この派遣ののち、弟子たちは各地で宣教を行いました。(マルコ16:19)福音書ごとに表現は違っていますが、「福音を宣べ伝えること」「弟子とすること」「バプテスマを授けること」「証人になること」が書かれています。この大宣教命令から2000年ほど経ち、今の私たちまでつながっているのです。「伝道」「宣教」と聞くとなかなか一歩踏み出すのが難しいです。日本においては「外国の宗教」であるからこそ、難しさを覚えるでしょう。このような中、私たちはどのように伝えれば良いのでしょうか。

◆1.救われた喜びの中で生きる。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

(ルカ1:46,47)

救われた時の喜び覚えてますか?その喜びの中で今生きていますか?私たちがその喜びの中で生きる時、そこに主は確かに働かれます。生き生きしている人と、生き生きしていない人どちらに惹きつけられますか?生き生きしている人だと思います。24時間365日生き生きすることは難しいです。でも、何かあったとき、何気ないときに救われた喜びの中で生きることにより、周りの人への良い影響を与えるでしょう。そこからキリストを伝えるチャンスがあるのではないかと思うのです。

◆2.クリスチャンであることを"自然"に知ってもらう。
私たちがどんなに生き生きして、魅力的な生き方をしていても、その理由を知ることができなければ他の人には伝わりません。ぜひ、会社で学校で友人関係の中でクリスチャンであることを知ってもらってください。そこから伝道は始まります。

大宣教命令②に続く

坂西恵悟

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(マタイ16:18)

◆教会の目的②は、一つの所に集まることです。新約聖書において教会は「エクレシア」と訳されています。元々は、「呼び出された者の集まり」という意味があります。しかし、当時のユダヤ社会において、この「エクレシア」はキリスト教の集まりというより、ギリシャの議会などに使用されていた言葉でした。この「エクレシア」は招集によって市民を集め、神々への祈りと犠牲をささげることをもって始められたそうです。新約聖書において初めて「エクレシア」が「教会」として使用されたのは、マタイ16:18です。私たちが集まる所の土台、それが「この岩」です。「この岩」は新約聖書の時代においても、今の時代のおいても変わりません。では、「この岩」とは何でしょうか。それは、直前のペテロの告白(マタイ16:16)です。御子を正しく知り、それを言い表すことを基礎として、イエス様は「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言いました。

◆教会は、私たちが集まりたいから集まったものではなく、神様によって集められているということを私たちは確認しなければなりません。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使徒20:28)とあるように、イエスキリストの十字架によって一つに集められています。その中で、信じている者もそうでない者も集まり神様の前に近づく集まりなのです。

◆神様によって集められ者が神様を礼拝する集まり、それが教会の目的の一つです。神様によって集められた教会のかしらはイエスキリストです。エフェソ1:23にあるように私たちはキリストのからだです。神様によって集められた者はかしらであるキリストに従って歩んでいくのです。

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:23)

坂西恵悟

2

過去の記事