今週の一面『「暇」について』8/5

Shin1

◆私が高校3年生の時、日曜日礼拝に行こうとしたら、「そんなに暇があるなら受験勉強を!」と母に言われたことを忘れることができません。又、坂西牧師にバトンタッチしてから「お暇そうですね」と言われることがあり、改めて「暇」ということについて考えさせられています。

◆昔、「暇」を「日間」と書いていたそうです。人が働くことや様々なことで忙しくて、心がビッシリ詰まっている時、そこには日の光が射し込む隙間がありません。日の光を受けない植物が育たず実を結ばず、病気になってしおれてしまうように、忙しさは心を亡ぼし、ゆとりを失わせる危険が伴うことから、「日間(日の射し込む間)を大切に」と言われてたそうです。

◆御言葉に「全世界を自分のものにしても、自分自身を失ったら何の益があるだろうか」とあります。「私は、木を切るのに忙しくて、斧を見る暇がなかった」よい木を、より速く、より多く切ることに専念したが、退職後、見出したのは、刃がボロボロに欠けた斧でした。という語があります。

◆働きにおいて、大きな成果を挙げたとしても、木を切っていた斧である自分自身が、その間、心身共にすり減っていたとしたら、本末転倒です。

◆常に木を切る斧である自分自身に油をさし、日の光が射し込む日間を大切に。イエス様の公生涯は日間(礼拝、弟子達と共に祈る祈り会、ディボーション)を大切にされました。 

石田政美

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