今週の風景 No.571  

管理人
本日は石田牧師のメッセージでした。
いよいよラストランが近づいて、語りたいこと、伝えたいこと、を力強く語っておられました。

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今週の一面『 はじめの愛に 』9/30  

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しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(黙示録2:4,5a)

◆ある開拓教会の牧師がこのようなことを言いました。「会堂を建てることによって、教会は必ず変化する。それは前進しようとすることより、守ることに力を向けてしまう。だから、私は、会堂を建てても開拓をし続ける。」

◆JOYチャペルができて、20年目に入りました。この19年の歩みの中で多くの人が情熱を持ち、祈り、奉仕をし、礼拝を献げてきたことでしょう。また、礼拝だけでなく、祈り会や家庭集会なども行なっていたことでしょう。最初は小さな群れで個人宅で始まった礼拝が、場所を移し、人数が増え、会堂を建てるまでに成長していきました。その中には、感謝なこと、辛かったこと、楽しかったこと、悲しかったことなど多くあったことでしょう。過去を振り返ってみて、現在を見た時、あなたは何を手にしているでしょうか。私たちは、時代が時間が流れていく中で多くのものを手にして、多くのものを手放してきました。今、あなたが手にしているものは何ですか。大切なものはしっかりと手にしているでしょうか。

◆会堂が建ち、隣地も与えられた中、私たちには多くのものが与えられています。多くの変化がありました。しかし、それでも変えてはいけないものがあります。それは、「はじめの愛」に立ち続けることです。聖書を通して、主が約束してくださっている「将来と希望」をなくしてはいけません。教会に与えられている「使命」をなくしてはいけません。前述した教会は、いまでも様々な地域に開拓をし続けています。私たちも、教会に与えられている「使命」を再確認し、宣教の働きを担っていこうではありませんか。節目の年だからこそ、私たちが何を大切にしているのか確認しながら主の働きを全うしていきましょう。

坂西恵悟

◆今年も9/22,23にJOYチャペル恒例のファミリーキャンプが行われています。1999年の開拓伝道以来欠かさず行われている恒例行事。毎年、運動会、レクレーションなどで身体を動かしたり、パフォーマンスを披露したり、教会川柳やフォトコンテストを行ったり、楽しさ満載のときを過ごしています。

◆今年はキャンプ委員を退き、初めて一参加者としてのキャンプ。若いJOYメンバーが中心となってキャンプを企画、運営していることを頼もしく感じています。

◆キャンプは教会に来て間もない方や教会は初めてという方も参加されるので、一般的に思われているであろう⁈、おとなしい、真面目、つまらない?という教会、クリスチャンという固定観念とはかけ離れたメンバーの姿を目の当たりにして驚くこともあるようです。

◆キャンプでは楽しいことだけでなく、これからの教会のことを沢山、真剣に考える時間も多く割いてきました。普段あまり話す時間を持つことが難しくても、キャンプではじっくりとお互いのことを知り合ったり、信仰や教会について話し合ったり、教会の目指すビジョンを共有する大切な時間となってきました。
さあ、今年のキャンプはどうでしょう?

濱田眞一

今週の一面『 祈りを体現する 』9/16  

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◆祈りは私たちにとって何でしょうか。あるクリスチャンの先輩が「祈りは呼吸である。」と言いました。私たちにとって祈りはなくてはならないものであり、祈りのない生活はクリスチャンとして致命的でしょう。私たちが祈る時、その内容の多くは「願い」だと思います。誰の「願い」でしょうか。私たち自身の「願い」です。「願う」祈りがダメなのではありません。
また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ18:19)とあるように、私たちは「願う」祈りをすることをゆるされているのです。

◆では、反対に私たちはどれほど主が願われている祈りを聞いているでしょうか。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17:21)

◆イエスが願い、祈られていることを私たちはどれだけ知っているでしょうか。その祈りを私たちはどれだけ応えようとしているでしょうか。教会を建てあげていくために、私たちが神様の祈りに応えることは必要なことです。主が何を願われているのかを知らない中で宣教の働きは無意味であると思います。だからこそ、私たちは主が願われ、祈られていることを知り、その願いを私たちは応えていくことが必要です。

◆主が願い祈っていることに私たちが応えることができたらなんと素晴らしいことでしょうか。主の祈りにも私たちは耳を傾けたいと願うのです。

坂西恵悟

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