◆親は子どもに対し、自分と同じ苦労をしてほしくないと願います。そのために、様々な習い事をさせたり、経済的サポートをしたりとするでしょう。これは、子を思う親の気持ちです。しかし、神様のご計画は違います。神様の前では一人一人に必要な試練があるのです。この試練を通して、練られ、成長していくのです。

◆イサクも父、アブラハムと同様でした。彼も結婚してから20年間子どもが与えられませんでした。アブラハムと神様の間で約束されたことが目の前に起きない。神様への信仰が試される試練でした。それでも、イサクは妻リベカのために祈りました。(創世記25:21)

◆アブラハムと同様に、イサクも飢饉を体験しました。(創世記26:1)
イサクは、アブラハムがエジプトに下ったように、自らもエジプトに行こうとしました。しかし、神様の言葉に従い、彼はエジプトには行かず、ゲラルに住んだのです。(創世記26:1-6)
このゲラルにおいても、アブラハムと同じことが起きました。妻のリベカを妹と偽ったことです。これほどアブラハムと同様なことが起きると、可笑しくなってしまいます。しかし、このこともイサクが整えられるためには必要なことでした。彼は、ゲラルで祝福されましたが、そこでは妬みがありました。その結果、ゲラルを離れたのです。離れた先でも神様はイサクを祝福しました。そしてベエル・シェバにて神様から祝福の約束が与えられたのです。(創世記26:24)
アビメレクはイサクが主に祝福されている者であると認め、イサクとの間に誓約を交わしたのです。(創世記26:26-33)

◆イサクのしもべ達は、アブラハムの井戸を掘り直した後、新しい井戸を掘り当てました。ここに、信仰者の継承の姿を見ることができます。先人達が見出したものを継承し、その土台の上に新しい主の恵みを求めることが大切なのです。

坂西恵悟

◆アブラハムは多くの日を重ね老人になりました。その間に、最愛の妻サラの死がありました。しかし、主は祝福をアブラハムに与えてくださいました。(24:1)このような中、アブラハムが願ったことは、息子イサクの結婚でした。彼は、財産管理を任せている僕に、結婚相手を探すように命じました。(24:2-9)

◆この僕は、ナホルの町に到着するとまず祈りました。彼は、女性を探すことよりも祈ることを優先したのです。これは、彼自身がこれからのことをすべて主の導きにゆだねたからです。彼の祈りは非常に具体的な祈りでした。
①よく仕事をし、
②親切で、
③よく気が付き、
④忍耐強い女性を祈り求めたのです。(24:14)
この僕の祈りに対して、主の答えは速やかでした。祈り終わる前に、リベカが水を汲みにやってきたのです。(24:15)
ここでは、確かに僕が祈っていました。しかし、彼が祈り終わる前にリベカがやってきたということは、すでに神様のご計画が実行されていたことがわかります。つまり、僕の祈りだけでなく、アブラハムの長い祈りが答えられた瞬間だったと思うのです。神様はすぐに答えを出してくださる方です。しかし、その祈りの背後には多くの、長い祈りの積み重ねがあるのです。                    

◆僕は、祈りが叶えられたことにより、有頂天になることはありませんでした。彼が行なったことは主への礼拝でした。彼は物事を行う時、主に祈り、主の導きを体験したのち、感謝をし主をほめたたえています。  
  
◆その後、ラバンたちとの交わりの中で、主がどのように導いてくださったのかを証ししました。彼は、主に対しても、人に対しても誠実で忠実な人物でした。この姿は、私たちが見習うべき信仰者のあるべき姿です。

坂西恵悟

◆私たちの人生は、たくさんの壁にぶち当たります。それは、クリスチャンであってもなくても全人類が経験することしょう。アブラハムは、多くの試練を体験しました。自分の慣れ親しんだ場所を離れること、子どもが与えられないことなどです。その都度、彼は主に立ち返りました。そんなアブラハムにまた大きな試練がやってくるのです。創世記22章にある最愛の息子イサクをささげるということです。  

◆創世記22章を見ると、そこにはアブラハムの信仰者の姿を見ることができます。このアブラハムの姿は私たちも見習うべき姿なのです。22章を分けると、
①神様からの試練(22:1-3)、
②アブラハムの神様への応答(22:3-10)、 
③神様の備え(22:11-14)、
④神様の祝福の約束(22:15-19)
この4つに分けることができます。          

◆アブラハムは、神様から与えられた試練に対して忠実でした。朝早く、準備をしイサクをささげに向かったのです。神様の命令通り、彼はイサクをささげようとしました。そこには、神様は約束を守る方であるという"確信"と、神様が必要を備えてくださるという"信頼"、イサクをささげようとする行為による"献身"がありました。この姿を見て神様は、アブラハムの必要を備え、祝福してくださったのです。 

◆私たちの人生も同じです。試練を目の前にした時、私たちの内に神様への"確信"と"信頼"と"献身"はあるでしょうか。この信仰を持ち、神様の前に進む時、神様は必要を備え、祝福してくださるのです。このアブラハムの姿のように私たちも見習っていきましょう。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。
(Ⅰコリント10:13)              

坂西恵悟

◆神様がアブラムに対して、アブラムから子孫が出ると約束してくださいました。しかし、なかなかその約束を見ることができません。しびれを切らしたサライは女奴隷のハガルとの間に子を授かるようアブラムに言いました。そして二人の間にイシュマエルが生まれました。(16章)

◆イシュマエルが生まれて13年が経った時、神様は再びアブラムの前に現れ、アブラムとの間に永遠の契約を結ばれました。神様との交わりの中、アブラムはイシュマエルのことを話しましたが、神様はアブラムとサライの間にイサクが生まれることを約束してくださったのです。(17-18章)                              
◆その後、「主が約束されたとおり」(21:1)サラはイサクを産みました。アブラハムとサラは不信仰によって、多くの失敗をしてきました。しかし、ここに主の約束が成就し、彼らは主への信仰を確立していったのです。神様にはご自身のご計画があります。それは、私たち人間の基準で測ることができるものではありません。神様の「時」によってそのご計画を実行されるのです。神様が用いられようとする器は様々な試練や出来事を通して、きよめ、整えてくださるのです。 

◆アブラハムとサラはそれぞれ、神様に応答しました。アブラハムは主の命令に従って、生まれた子どもにイサクと名付けました。そして、主の命令の通り8日目に割礼を施しました。イサクこそが、神様との契約を受け継ぐ者であると信じたのです。サラは、自分と夫の間に子どもが与えられると聞いた時、笑いました。(17:17、18:12)そして、イサクが生まれ時、「神はわたしに笑いをお与えになった。」(21:6)この言葉は、神様がサラを祝福してくださったが故の笑いであることを告白しました。

◆神様はご計画されていることを必ず実行される方です。約束したことを必ず守る方です。この神様に信頼していきましょう。御言葉によって約束されていることを信じていきましょう。

坂西恵悟
                       

今週の風景 No.577  

管理人
新年第一主日。
「わたしについてきなさい」
は、そのままのわたしでついていけば良いのだ、と言うホッとするメッセージでした。

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