◆私は4歳のときからサッカーを習い始め、11歳まで続けました。所属するサッカークラブはサッカーチームを結成し、私もそのメンバーとして過ごしていました。監督もチームに熱が入り、練習・試合日は日曜日と重なることが増え、その度、私は選び取らされていくのでした。「次の日曜どうするの?自分で監督に言いに行きなさい。」と心に突き刺さる母の言葉に震えながら、私は監督に試合を断ることもしばしばでした。(今では母を通し、主に語られたように思える。)ある日、監督へ試合を断りに行ったとき、「次の試合を休んだらレギュラーから外す」と言われたのです。嫌な予感はしていたものの、監督の言葉は一生懸命努力していた自分を振り落とすような言葉でした。板挟みのような状態で、天秤にかけることもできずに葛藤し、悩み、祈っていました。幾日か経ち、主に後押しされ、吹っ切れたかのように心が軽くなった私は、礼拝を選び取りチームをやめました。

◆サッカーをやめた私に、主は賛美の賜物をくださいました。濱田さん、桐本さんからギターを習い、何もできない状態で私は礼拝の前に立たされたのも覚えています。そこから私は、楽器奉仕のメンバーに支えられ(ときには鍛えられ)ながら、賛美の内で主と交わることを学びました。私にとってギターを持ち、楽器によって主に賛美を捧げる瞬間は、どんな音楽をするときにも勝る喜びがあります。

◆その思いから導かれ、今はLIMSという賛美グループで活動しています。詩編22:3にあるように賛美の内に住まわれる主を喜びとする空間に、自分も存在する瞬間がとても居心地が良いのです。また、それぞれの教会で捧げられる賛美に携わる人たちと共に分かち合うことができ、励まされています。

◆あらゆる場面で、主から選び取るときが与えられます。選び取るとき、その選んだ先にある祝福を求めて歩みたいと願っています。

「信仰の道をわたしは選び取りました。」(詩編119:30)

澤田芳矢

〜 出エジプト32:7-14 〜

◆モーセがシナイ山で神様に出会っている時、イスラエルの民はアロンに神を造るよう訴えました。そして、彼らは金で子牛の偶像を造り、それを拝み、像の周りで飲み食いし、立って戯れたのです。(32:1-6)この様子を神様はご存知でした。イスラエルの民の愚かさに怒りを覚えられた神様は、彼らを滅ぼすことを考えたのです。

◆私たち人間は、神様からの恵みをいただいた時、その瞬間は喜びと感謝であふれますが、すぐにその恵みを忘れてしまうものです。イスラエルの長老たちは、神様の声を聞き、共に食事をしていた(24:11)にも関わらず、神様の前で、彼らは偶像を造り、そこで飲み食いをしていたのです。神様はイスラエルの民を「かたくなな民」と言いました。「かたくなな民」という言葉は、もともと、手綱に逆らおうとする牛や馬に用いられていた言葉です。神様という飼い主が引っ張っているにも関わらず、それに逆らってしまっているのがイスラエルの民なのです。

◆この姿は、私たちにも当てはまるのではないでしょうか。神様が私たちの歩みを導いてくださっているのに、自分たちの思うように動き、イスラエルの民のように手綱に逆らってしまうことはないでしょうか。

◆神様の怒りに対し、モーセはイスラエルの民のためにとりなしました。モーセが必死にとりなした時、神様はその怒りをおさめられました。モーセのとりなしは、神様の御心にかなうものだったのです。モーセの必死のとりなしがイスラエルの民を救ったのです。私たちもモーセのように、とりなしていくことが大切です。家族のため、友人のため、地域のため、日本のため、世界のためと神様に対し、「かたくなな民」のためにとりなしの祈りをささげていきましょう。

坂西恵悟

今週の一面 『召天者記念礼拝』9/8  

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「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマ14:9)

◆「沖縄に住んでいた時、現在のお盆のシーズンよりも旧盆の方が大切にされていました。特に、私たちが住んでいた宮古島では先祖崇拝が強い島でもありましたので、旧盆の時期になると、学校や会社が休みになり親戚一同でお墓の前で食事をする文化がありました。内地(本土)から移住された方々は"休日"という感覚が強いですが、沖縄の人々にとっては大切な日でした。

◆教会の方々にお話を伺うと、「キリスト教は先祖を大切にしていない」「亡くなった方への関心がない」などの言葉を受けたことがあるという方が大勢いらっしゃいました。私たちクリスチャンは果たしてそうなのでしょうか。そんなことはないと思います。教会では毎年、先に天へと凱旋された方々を覚え、礼拝を献げています。それは、召天された方々を覚え、出会いに感謝し、再び天で再会できることを感謝しつつ礼拝を献げています。

◆イエス・キリストの十字架と復活は私たちの罪の贖いだけでなく、私たちに希望を与えてくれるものです。創造主である神様は私たちがこの地上の歩みを終えた後も、私たちとの関わりを持ってくださる方です。そして、このキリストを信じる人々に新しい命を与えてくださるのです。私たちの人生は死が終着点ではなく、世の終わりの日に復活のイエスとともに神様のもとで永遠の命を生きることができる希望がある人生なのです。

◆召天者記念礼拝は、神様がこの地上においても地上での歩みを終えたあとでも関わり続けてくださる主であること、再び出会うことのできる希望を覚える時であること、イエス・キリストの十字架と復活に感謝する時なのです。

坂西恵悟

今週の風景 No.579  

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NL教会メンバーがCD販売宣伝のために駆けつけてくださいました。

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2019年9月1日 講壇の花  

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