今週の一面『God be with you』3/29  

管理人

◆所属する合唱団が20年の活動に休止符を打つ事となり、覚えた最後の練習曲を、デリー行き8時間のフライト中繰り返し聞いていた。
『神ともにいまして、ゆく道を守り、日ごとの糧もて、つねに支えたまえ。荒れ野を行くときも、嵐吹くときも、ゆくてをしめして、常に支えたまえ。また会う日まで、また会う日まで、神の恵み絶えせずともにあれ』 新生賛美歌366番

◆3年前、仕事でインドへ行った息子から、ようやく春には帰国出来そうだから、残りわずかな滞在中遊びに来てよと言われ、インド旅行の計画を立てたのは昨年末のこと。衛生用品と医薬品をスーツケースいっぱいに詰め込んだ。どこの国より空気も水も汚れ、世界一の感染病原菌を宝庫とする国で暮らす息子を案じて。準備を進めている間に予測していなかったことが起き始めた。新型コロナウィルスの感染が世界的に広がるという事態。

◆神ともにいまして、この賛美歌の英語タイトルは、God be with you 、後にtill we meet againの言葉が続く。これはGood byeの起源となる文節と言われている。今は互いに離れ離れになるのだとしても、神さまがいつも私たちと共にいてくださることを信じて、「Good bye=God be with you」と挨拶する。そして、この挨拶の中には、いつかまた神さまの祝福の中で再び会うことができることを信じる想いも込められているとのこと。

◆全てが主の守りの中にあってインドへの旅は無事に終え、帰国当日の朝、日本からインド入国が許可されないニュースを聞く。息子の交代要員が足止めとなり、息子もまた日本にはしばらく戻れなくなった。
耳の奥に残る「神ともにいまして」の賛美が祈りに変わる。

守屋まゆ美

◆神様は、人間をよくご存知です。人間が真の神以外のものに目を向けてしまうものであるということをご存知です。だから、神様は、イスラエルの民に律法を与え、私たちに聖書を与え、真の神に目を向ける、イエスキリストに目を向けるように備えてくださったと思います。

◆エリコの町を侵攻したイスラエルの民に、神様は制限をもうけました。金、銀などを主の宝物倉に納めるようにと命じられたのです。(6:19)しかし、この主の命令に従わない者が民の中から起こりました。結果、アイという町を侵攻したイスラエルは敗れてしまったのです。ヨシュアは、主が命じられた通り、従わなかった者、アカンを明らかにしました。アカンは、ヨシュアに対して分捕り物の中の上着、銀、金を取り、天幕の下に隠したと答えました。(7:19-23) 

◆アカンの罪は、むさぼりの罪でした。これは、十戒の10番目の戒めでもあります。彼は、目の前にある分捕り物を自分の物にしたいという誘惑に勝つことができなかったのです。これは、私たちにも起こり得ることです。だから、主がイスラエルの民に命じられたとおり、私たちも御言葉を日々読んでいく、行っていくことが大切なのです。

◆アカンは、神様の前に罪を犯しました。隠していたことから、見つからないだろうと思っていたかもしれません。しかし、主はそれをも見ておられます。私たちは主の前に悔い改め、「きよい、生きた供え物」として歩んでいきたいのです。

「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(1ヨハネ2:16-17)

坂西恵悟

◆ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は、いよいよカナンの地への侵攻をスタートしていきました。まず民が向かった先は、ヨルダン川を渡る前に斥候を送ったエリコでした。エリコの町は堅固な城壁に囲まれた町でした。「攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので」とあるように、その守りは強固なものだったでしょう。人間的な視点で言うならば、どのように攻め込むのかを熟考する必要があったかもしれません。固く閉ざされた城門を見て、不安を覚える人もいたかもしれません。しかし主は、「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。」と約束されました。エリコへと侵攻する前に、主はエリコを渡すと約束してくださっていたのです。

◆なぜ主はエリコを侵攻し、滅ぼすことをなさったのでしょうか。彼らと共存するという選択肢がなかったのはなぜでしょうか。それは、彼らが主の忌み嫌われることをしていたからです。具体的には、申命記18章の習慣をエリコの人々は行っていたのです。主はイスラエルの民がそのような習慣の影響を受けることがないように、カナンへの侵攻を許されたのです。実際、南北王朝時代は、他の神、習慣の影響を受け、神の前に正しくない行いをし続けていました。その結果、イスラエルの民はその報いを受けたわけです。ですから、主がこのように行われたのは、イスラエルの民がまことの神のみを信じ、その神に仕え、その神を礼拝し続けるために、行ったのです。

◆私たちは、このイスラエルの民の弱さを同じように持っています。周りに流されやすいものです。ですから、私たちはまことの神に、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さずに歩んでいきたいのです。

坂西恵悟

◆ヨルダン川沿いのアダムという町で堰き止められた川の水。それにより、イスラエルの民はヨルダン川を渡ることができました。ヨシュアは主が命じられた通り「部族ごとに一人ずつ、計十二人を選びだし」ました。ヨルダン川の真ん中から、それぞれ石を取り、ギルガルにその石を据えたのです。主がこれらを命じられたのは、イスラエルの民の子ども達に主がヨルダン川を渡る時に、水を堰き止め、民が乾いたところを渡ったことを伝えるためでした。そして、「地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うため」でした。

「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩編103:2 新改訳2017)

◆出エジプトしたイスラエルの民だけでなく、アブラハム、イサク、ヤコブも主との出会いの場所に石を据え、主を礼拝しました。イスラエルの民に対して、主が働いてくださったように、私たちにも生きて働いてくださいます。私たちは主の救いの御業を受け取りました。また、日々の歩みの中で主が生きて働いてくださる、その力強い御手を伸ばし働いてくださるところを見ています。主のなさった偉大なその御業を私たちは思い出したいのです。時に、それは"かたち"として残すことも必要かもしれません。ダビデがうたったように、私たちも「主が良くしてくださったことを何一つ忘れる」ことのないように、主をほめたたえましょう。

坂西恵悟

今週の一面 『受難節(レント)』 3/1  

管理人

◆2/26(水)は、キリスト教暦で「灰の水曜日」となります。「四旬節」とすることもありますし、「レント」と表現することもあります。どちらかと言えば「レント」という言葉の方が聴き慣れている方もいらっしゃるかもしれません。プロテスタント教会ではあまり取り上げられることが多くないのかなとも思います。これは、イースター前の6回の日曜日を除いた40日間になります。ですから、イースターの46日前の水曜日から「レント」が始まるのです。

◆「40」と聞くと何を思い起こすでしょうか。イエス様の荒野での誘惑や、ノアの洪水、モーセのシナイ山などが出てくるでしょう。聖書では「準備の期間」として40という数字を考えることもあります。カトリックでは、この「灰の水曜日」に行うものがあります。「灰」は悔い改めのシンボルとして考えられており、しゅろを燃やして作られた灰を額に十字のしるしをつけてもらう「灰の式」という式も行われます。一番の目的は、イースターに向けて悔い改めの期間を過ごすこと、つまりイエスキリストの十字架を覚え、死をしのび、復活の喜びを祝うまでの準備として行われるようになりました。また、この時期は求道者がバプテスマを受けるための準備としても用いられており、求道者だけでなくクリスチャンも伝統的に、祈り、断食、慈善が勧められていたようです。

◆今年は4月12日がイースターです。この日まで、私たちもイエスキリストの十字架を覚え、悔い改め、感謝する期間を過ごしていきましょう。そして、イエスキリストの復活を共に喜び祝う日を待ち望んでいきましょう。

「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(2コリント7:10)

坂西恵悟

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