◆「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自身を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(ヘブル9:28)

◆今、復活祭のシーズンです。聖書の預言のとおりに、御子イエス・キリストは、この地上で人の子として、人類の罪のあがないを完成する十字架の業を成し遂げてくださいました。そして、主は、もう一度、この地に戻って来られます。

◆現在、新型コロナウィルスにより、世界中が未知のウィルス感染の対応と対策に追われています。私たちは、連日の報道であらゆる情報に一喜一憂しています。私たちも連日の情報を見聞きし、とりなし祈る日々を過ごしています。

◆イエス様のご再臨の日時は誰にも分かりませんが、マタイ24章にある「愛が冷え、産みの苦しみ」が増している状況を知り、また、神不在の人間中心の社会構造や、世界の国々が生み出した負の要因や、悔い改めるべき事実が明るみに出されてきていることを思うと、次の御言葉にしっかり向き合う使命を明確にされます。

「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」
(I.ペトロ4:7〜8)

石田政美

◆エリコ、アイと侵攻したイスラエルの民は、さらに西へと進路を進めました。ヨルダン川の西側の山地に住む、ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人はイスラエルの話を聞き、協力してイスラエルに立ち向かうことを決めたのです。ところが、ギブオンの人々は立ち向かうのではなく、策略を立ててイスラエルへと近づきます。彼らは遠い国から来た人々に変装し、イスラエルと協定を結んだのです。(9:1-13)食糧を携えてきた彼らとの協定を結んだヨシュアでしたが、大きな失敗をヨシュアは犯していたのです。それは、「主の指示を求めなかった。」(14)と言うことです。

◆ヨシュアが主の声を求めなかったのは2回目になります。1度目は、アイを攻める時、斥候の話を聞き、その斥候の説明通りに2,3000人で攻め、敗れた時です。そして、このギブオンの人々の協定の時です。このヨシュアの行動は、私たちもよく行ってしまう行動です。神様に祈りながら、御心を求めながら、御言葉に聞きながら歩んでいても、時に、人の言葉によって、一般的な常識によって、経験などによって判断してしまうことがあります。ですから、たとえ自分自身の経験から来ていたとしても、私たちは主への祈り、導きを求めた上で行動を起こしていくことが大切だと思うのです。何か決断をする前に、主の前にへりくだり、これでよいかと祈っていく。これをするのとしないのでは大きな違いがあるでしょう。

◆私もこの行動を行ってしまうことがあります。判断を早くしなくてはいけない時など、焦れば焦るほど、主に祈るということを忘れてしまいます。私たちの軸はキリストであり、神様です。その軸を土台を変えてはいけません。ですから、たとえすぐに判断できたとしても、主に祈ることをしていきたいのです。「主よ、この決断で行動します。どうぞ主の御心を行ってください。導いてください。」と祈り、決断していく者になっていきたいのです。

坂西恵悟

◆木曜日は、洗足の日、最後の晩餐、ゲッセマネの祈りの日でした。金曜日は、受難日でした。この1週間皆さんは、どのように過ごされたでしょうか。7日には、緊急事態宣言が発令されました。これを受け、教会としても会堂での祈り会を休止する決断をいたしました。オンラインでの祈り会を継続していこうと思っていますが、そこに加わることができない方々もいらっしゃいます。その方々のためにも引き続き祈っていきましょう。

◆マルコ14:3-9は、この時期に読まれる箇所の一つです。イエス様がベタニアのシモンの家にて高価なナルド香油を注がれる箇所です。約300万円ほどの香油を注ぐ。このことは、普通の感覚では考えられません。4節にあるように、「無駄遣い」と思ってしまう行動です。

◆彼女の行動には2つの意味があります。一つは、イエスに香油を注ぐことは、イエスが救い主、メシアであることを告白していることです。メシアは「油注ぐ」という意味から来た言葉です。ですから、彼女の行動はイエスが救い主であるという信仰による行動なのです。

◆もう一つは、イエスご自身の口から仰っています。「埋葬の準備」をしたということです。ヨハネ福音書を見ると、この女性はマリヤであるとされています。この女性がマリヤならば、イエス様の話をよく聞いていたと思いますし、意味を知った上での行動でもあったと思います。

◆この時、イエス様が救い主であり、十字架の死によって罪を贖ってくださる方だと信じていたのは、この女性だけだったかもしれません。弟子たちはイエスが逮捕された時、逃げました。そして、ヨハネによると、彼女の行動を否定したのはユダですが、おそらく他の弟子たちも彼女の行動を理解できていなかったことでしょう。

◆イエスキリストが、"わたし"のために十字架にかかってくださったことをこの週特に覚えたいのです。愛を持って、罪から救ってくださった。そのために、ご自身を犠牲にされ死んでくださった。この主の愛は、ここにいた人々だけでなく、今を生きる私たちにも、同じように注がれているのです。

◆なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた。」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。(2コリント6:2)

坂西恵悟

◆アカンへのさばきが終わり、イスラエルから罪が取り除かれて、イスラエルはきよめられました。神様は、改めてヨシュアに対し、アイに攻めのぼるよう命じられたのです。一度敗北をしている民が、もう一度攻めるというのは勇気がいることです。しかし、これまでと同様に、神様は「恐れてはなならない。おののいてはならない。...あなたの手に渡す。」(8:1)と約束をしてくださいました。神様の約束通り、イスラエルの民はアイとの戦いに勝利しました。

◆その後、ヨシュアは、エバル山とゲリジム山へ民を連れて行きました。エバル山では、主のための祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげたのです。そして、モーセの命令通り、祝福と呪いを律法から読み上げました。(8:30-35)

◆イスラエルの祝福のために行われたこの出来事は、モーセが命じたことでもあります。(申命記27:15-26,申命記28章)焼き尽くす献げ物は、神様に対する従順さ、献身を表し、和解の献げ物は、神様との霊的な交わり、友好関係を願い、それが与えられていることを感謝して献げるものです。神様は、イスラエルを祝福されることを願われています。そのために律法を与え、守るように命じられたのです。

◆イエスキリストの十字架は、私たちがこの祝福に加えられるために必要なものです。イエスを信じ、愛し、主に結びつき、主の戒めを守り行うことが私たちに求められていることです。いよいよ、受難週を迎えます。この1週間、私たちはこれまで以上に主イエスの十字架を覚える1週間としていきたいのです。私のために十字架にかかられたイエスの痛み、苦しみを覚え、感謝し、復活の希望の日曜日を待ち望みたいのです。

坂西恵悟

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