◆エフドの死後、イスラエルはこれまでと同じように主の目に悪を行いました。主は、カナンの王ヤビンの手にイスラエルを渡されたのです。イスラエルは、ヤビンの将軍シセラによって苦しめられていました。主に助けを求めたイスラエルの人々に、主はデボラを士師として遣わされたのです。

◆神様が選ばれた士師には、条件が必要なのでしょうか。ここまでの士師たちは、それぞれの特徴がありました。オトニエルには、主の霊が臨み力強い戦いをしました。(3:10)エフドは、左利きであることが強調され、その点を有効に用いました。(3:15)シャムガルは、牛を追う棒でペリシテ人600人を打ちました。(3:31)牛追う棒は、農作業で使う道具ですから、彼は普段から農作業をしていたのでしょう。そして、デボラは女預言者でした。このように、神様が選ばれた士師は性別も職業も、おそらく年齢も異なる人々でした。神様は、その時代、その場所に必要な人を用いようとされるのです。

◆適材適所という言葉があります。一般社会の中でもこのことは意識されているでしょう。しかし、残念ながら、人間が行うには不確実な物です。けれども、神様の行われることに間違いはありません。ですから、私たちが置かれている環境や状況は、主が"わたし"を召してその場に置いてくださっているのです。

◆士師達は、主の召しを受けて立ちました。彼らがしたことは、主の声に聞き従いました。これは、士師達だけでなく、聖書に出てくる人物が行っていることです。ですから、時代も環境も違っていても、主の言葉に従い続けた信仰者たちのように、私たちも主の声に聞き従い続けていく者でありましょう。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、・・・わたしがあなたがたを任命したのである。(ヨハネ15:16)

坂西恵悟

◆二人目の士師は、エフドです。エフドは、ベニヤミン族の出身で、「私は賛美する」という意味の名前です。エフドの曾祖父が、ベニヤミンです。

◆イスラエルの民は、"またも"主の目に悪とされることを行いました。その結果、神様は、モアブの王エグロンを強くされ、なつめやしの町(エリコ)を占領したのです。エグロンは、18年間イスラエルを支配したのです。このイスラエルの民は、オトニエルの時代と同じでした。主への背信、主からのさばき、民の悩み、叫び、士師の登場。同じ様式でエフドは選ばれ、立てられたのです。

◆神様は、エフドを救助者として立てられました。エフドは、エグロンのもとへ行き、エグロンを討ったのです。その後、モアブはイスラエルの手によって陥落しました。イスラエルは、80年の平穏を得たのです。エフドの後には、シャムガルが立てられました。1節のみの取り扱いですが、確かにイスラエルの民を救ったのです。

◆士師によって平穏が何十年続いたとしても、イスラエルは同じことを繰り返しています。士師記は、このことを繰り返し伝えています。人間の弱さをはっきりとみることのできる書物かも知れません。私たちも同じ失敗を何度も繰り返してしまうことがあります。その失敗により主に悔い改めることを何度もしているでしょう。失敗をし続ける私たちを、主なる神様は見捨てることをなさらず、むしろイエスキリストによって、平穏を与えてくださるのです。士師記の時代は、限られた時間だけの平穏でした。けれども、今の私たちは、イエスキリストが私たちを治めてくださり、今も生きておられる主が私たちと共にいてくださるのです。その主のもとに、私たちは平穏をいただくことができるのです。

坂西恵悟

今週の風景 No.581  

管理人
久しぶりの投稿です。
管理人は3月からリモートワーク生活に入っておりましたが元気です。

JOYチャペルも緊急事態宣言中は奉仕者のみでYouTubeで礼拝LIVE配信を行なっていましたが、緊急事態宣言解除後は座席を間引きつつ1階と2階に分かれ、途中で換気のため窓全開、講壇前、賛美チーム前に飛沫防止用ビニールシート 等の対策をして教会での礼拝を再開いたしました。

晩餐式は接触防止のためパンとぶどう汁一体型の既製品を用いて実施でした。
(初めての体験でした)

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◆イスラエルの人々は、主の前に悪とされることを行いました。また、彼らは主ではなく、他の神々に仕えていたのです。その民に対して、主は怒りを覚え、クシャン・リシュアタイムの手に渡されたのです。外国の圧政によって苦しんだイスラエルは主に助けを叫び求めました。その求めに主は応じてくださり、救助者を立ててくださったのです。

◆この士師の時代のイスラエルは、主に対する背信→主の怒りとさばき→民の叫び→士師による救助。この形が何回も繰り返し行われています。人間的に見るならば、「いい加減にしてくれ」と思ってしまうところですが、主なる神は忍耐を持ってくださり、イスラエルの民の叫び、悔い改めに応えてくださるのです。

◆イスラエルの救助者として立てられたオトニエルは、カレブの甥っ子でした。オトニエルは始め「救助者」として立てられました。イスラエルを助ける者として立てられたのです。主の霊が臨んだオトニエルは、士師としてイスラエルを治めました。主の手によって、オトニエルはクシャン・リシュアタイムを抑えて40年に渡って国が平穏になりました。士師は、罪と苦難の時代に召し出され、イスラエルをさばき、治め、救助者として立たされました。士師は継承されるものではなく、時代、場所は、それぞれです。しかし、主の確かな守りと憐みが、士師を通して臨むのです。

◆士師記を見て行くと、人間の罪を繰り返す弱さを見ることができる一方で、主なる神様の忍耐と憐みを繰り返し見ることができます。主なる神は同じように、私たちに対しても忍耐してくださり、イエスキリストを救い主として送ってくださったのです。

坂西恵悟

◆2016年のリオオリンピックで、男子400mリレーが銀メダルを獲得しました。「日本人は、短距離では勝てない」という言葉が言われ続けていた中での快挙でした。その快挙のきっかけとなったのが、「バトンパス」でした。バトンの受け渡しを突き詰めたことで銀メダルを獲得できたのです。

◆クリスチャンも「つなぐ」ことがあります。「信仰継承」と呼ばれるものです。この「信仰継承」はいつの時代も考えられたものでしょう。私自身も一人の親として考えるものの一つです。成功談、失敗談は数多くあります。それは、聖書の中にもあります。エジプトを脱出し、荒野の40年を過ごし、約束の地へと入ったイスラエル。モーセ、ヨシュアがリーダーとして召しだされました。彼らと共に過ごした人々は主に信頼し、従う歩みをしていました。ヨシュアの死後も、ヨシュアと共に生きた長老たちの存命中は続いていました。

◆しかし、時間が流れ、新しい世代になった時、イスラエルの民は主に従うことをやめてしまったのです。彼らが選んだのは主ではなく、バアルなどの他の神々に従ったのです。このような民に、主は「士師」を立たせてくださいました。士師は、「さばく」や「治める」という意味があり、別の訳では「さばきつかさ」とも訳されています。士師は、イスラエルの民を「治め」、「正しくさばく」働きをしていたのです。この士師の元でイスラエルの民は、主を見続けることを選ぶのです。

◆私たちは、日々の生活の中で主以外のものに心を向けてしまうことがあります。また、主の前に罪を犯します。しかし、イエスキリストによって、私たちは主の前に正しく歩むことができるのです。私たちがつなげていくことは、イエスキリストによる福音です。この福音によって、私たちは主に従うことができ、主の豊かな祝福の中を歩むことができるのです。

坂西恵悟

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