◆サムソンの人生を見ると、主の霊が彼の上に下り、普通の人ではありえないほどの怪力を発揮させました。まさに英雄のような姿です。しかし、サムソンの人格は必ずしも成熟していたわけではありませんでした。彼は、性格的に欠点が多いようにも見えます。

◆「聖別された者」という意味のナジル人とされたサムソンは成長し、ティムナに住むペリシテ人の女性と結婚をしました。20歳ごろと思われる青年が、一人の女性に好意を持つことは自然なことでしょう。しかし、彼が好意を持ったのはペリシテ人でした。異邦人との結婚は一般のイスラエル人にはとっても許されないものでした。ましてやサムソンは、ナジル人として生まれたわけですから、彼の両親が反対するのも当然です。けれども、彼はその声に耳を傾けることがありませんでした。

◆サムソンの結婚は、彼の感情だけで決まったものではありませんでした。「父母にはこれが主のご計画であり」(13:4)とあるように、その背後には、主なる神がおられるのです。神様は、サムソンの身体的な能力だけでなく、彼の性格をもお用いになられたのです。神様がお用いになる基準は、私たちでは判断できません。私たちの基準で決められていないからです。何ができる、できないではなく、主が決められた人が用いられていくのです。旧約の時代の人々は後の世代の人々のモデルとして選ばれていました。今を生きる私たちは、イエスキリストを通して命じられている宣教の働きが担わされています。

◆一人一人が主によって選ばれた場所で、主が私たちをお用いになろうとご計画されているのです。

坂西恵悟

◆士師記の最後に登場するのは、士師記の中でも有名なサムソンです。これまでの士師たちは、民を率いて多民族との戦いに出ていました。しかし、サムソンは一騎当千の活躍をするのです。サムソンが士師として立てられるようになった理由は、イスラエルがまたも主の目に悪とされることを行い、主が40年間ペリシテ人の手に渡され、圧迫された日々を送っていたからです。(13:1)

◆サムソンを出産した母親は、マノアという人の妻でした。彼女は、不妊の女性でした。彼女のもとに主の御使いが現れ、男の子を産むと告げたのです。(13:3)この御使いの言葉は、彼らだけでなく、イスラエルに対しての希望の言葉となりました。不妊の女性に子どもが与えられるだけでなく、生まれてくる子どもが、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者になるという約束も備えられていたからです。(13:4)サムソンの両親は、御使いの言葉に従いました。マノアは、妻に語られたことを聞き従うために、再度御使いの言葉を求めたのです。主によって与えられた子どもは、不妊の中に与えられた喜びだけでなく、民の喜びとして、感謝して受け止めていったのです。

◆私たちも大切なことは、しっかり聞きます。メモをして残すこともあります。それは自分自身にとって非常に大切なものだからです。だからこそ、私たちは主の御言葉をこの夫婦のようにしっかりと聞く者でありたいのです。彼らは、ただ聞くだけでなく、語られることを求めました。希望に耳を傾け、為すべきことを行ったのです。私たちには聖書を通して希望が語られています。私たちもその希望に耳を傾け、それぞれの為すべきことを行っていきましょう。

坂西恵悟

◆エフタのアンモン人との戦いは、エフタの勝利で終えました。しかし、主との誓いの中で、アンモン人との戦いに勝利した際、自分を迎える者を献げると誓ったのです。その結果、彼は一人娘を主に献げました。(11:29-40)

◆アンモン人との戦いに勝利したエフタ。そのことを喜ばない人たちがいました。エフライム人です。エフライム人は、マナセ族と共にヨセフ族から枝分かれした部族です。エフライム人は、アンモン人との戦いの時、自分たちに共に戦うよう呼びかけなかったことに対して抗議をしたのです。彼らの不満は、どこから来るものなのでしょうか。戦いの勝利による戦利品の分け前にあずかれなかったことだったのかもしれません。カナン北部の諸部族の盟主であることを自負するエフライム人の自尊心が傷つけられたから、かもしれません。いずれにせよ、エフライムはエフタに対して抗議し、脅迫をしたのです。

◆彼らの抗議や脅迫は、エフタに効果はありませんでした。エフタはアンモン人との戦いにおいて、エフライムが呼びかけに応じなかったことを説明し反論したのです。そして、エフライム人との戦いに出たのです。同族同士の戦い、結果としてエフタは勝利しました。エフライムを逃げ出した者は、ヨルダン川を渡ろうとしましたが、言語のなまりを利用し、逃げ出したエフライム人を打ったのです。

◆この同族同士の戦いのきっかけは、エフライム人の高慢さでした。箴言16:18「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」とあるとおり、その高慢さ故に彼らは破滅へと進んでいったのです。この高慢さは私たちも持ってしまうものです。もし誰かとの間で争いが生じてしまっているならば、そこには人間の高慢さがあるかもしれません。ですから、私たちはいつも主によってへり下り、平和をつくりあげる者でありたいのです。

坂西恵悟

◆エフタは、6年間イスラエルをおさめた士師です。彼は、ギレアド人で勇者でした。彼の父はギレアドで彼の母は遊女でした。(11:1)それゆえに、兄弟と同等の権利が与えられず、追い出されてしまいました。エフタは逃げた先で、ならず者たちが集まり、彼らのリーダーとして立ったのです。

◆イスラエルとアンモン人は対立し、戦争になりました。ギレアドの長老たちは、エフタに指揮官になってもらうことを求めたのです。

◆アンモン人は、イスラエルの民がエジプトから出た時、自分たちの国土を奪ったと主張し、その返還を求めました。指揮官となったエフタは、アンモン人の土地をイスラエルは奪っていないということです。もともとギレアドの地はアモリ人の土地でした。アモリ人の王シホンを打ったイスラエルはアモリ人の地を占領しました。エフタの主張は、「あなたは、あなたの神ケモシュが得させてくれた所を得、わたしたちは、わたしたちの神、主が与えてくださった所をすべて得たのではなかったか。」(11:24)ということです。つまり、それぞれの土地はそれぞれの神によって与えられたものだと主張しました。

◆私たちには、主から与えられた生きる場所、範囲があります。物理的な住まいというだけでなく、環境や立場もそうです。神様によって与えられた場所で生きているのです。エフタが「わたしたちは、わたしたちの神、主が与えてくださった所をすべて得た」と主張するように、私たちが"今"置かれている所は主が与えてくださった所であるということを信仰を持って表していきたいのです。多くの戦いがあります。けれども『主の山に備えあり』とあるように、主が与え、備えてくださることに私たちは感謝し期待していきましょう。

坂西恵悟

◆イスラエルの人々はまたも主の目に悪とされることを行いました。このことは士師記で一貫して語られていることの一つです。主の目に悪とされることを繰り返し行うイスラエルの民、この民の姿は、まさに私たち人間の姿を現しているでしょう。

◆これまでのイスラエルの民との違いは彼らが従った神々の数です。バアル、アシュトレト、アラム、シドン、モアブ、アンモン、ペリシテ人の神々に仕えていました。イスラエルの民は、こんなにも多くの神々に仕えるほどの霊的状態だったのです。(10:6) それゆえ神は、イスラエルの民を、ペリシテ人、アンモン人の手に18年渡されたのです。このような中、イスラエルは主に叫びました。自分たちの罪を認め、告白したのです。(10:10) この告白に対して、主はすぐに救いの手を差し伸べることはしませんでした。主は、イスラエルの民に、異邦の民による圧迫からイスラエルを救い出した歴史を示しました。しかし、イスラエルは主を捨てて、他の神々に仕えたのです。

◆イスラエルの悔い改めは、一時的なものでした。士師たちによって平穏が与えられても、時間が経つにつれ、また同じ失敗を繰り返していく。真の悔い改めと主への信仰が試されている時でもありました。

◆神様からの救いを受けるためには、私たち自身の罪を認め、告白し、悔い改め、その罪から離れることです。また、主を信じ、主に信頼し、主にすべてを委ねることです。イスラエルの民が「わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。」(10:15)と主に告白したように、私たち自身も主に告白していくことが大切です。
「どうか、きょう、私を救ってください」と祈り続ける者でありましょう。

坂西恵悟

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