◆現代社会では、子どもは"つくるもの"という考えがあります。おそらく、医学などの進歩によって、妊娠のメカニズムなどが明らかになっているからでしょう。一昔前までは、子どもは"授かるもの"と考えられていました。100%意図したとおりにならないことからも、偶然もしくは、何か大きな働きによって授かったと考えられていたからでしょう。聖書の時代は、徹底して、子どもは神様からの賜物であると考えていました。

◆エルカナとハンナの間に与えられたサムエル。彼らは喜びに満ち溢れていました。主に対して敬虔であったエルカナは、毎年主の宮に上ることを大切にしていました。サムエルが与えられてからも同じように行動をしようとしますが、ハンナはそのことを拒んだのです。ハンナは、乳離れするまでサムエルを手元に置き、それから主の働きのためにささげようとしたのです。

◆「三つ子の魂百まで」という言葉があります。これは3歳ごろ(幼児期)に体得した性質は年をとっても変わらないという意味です。実際、子育ての現場でも3歳までの関わりを一つの節目と考えられています。ハンナは乳離する時期、3歳ごろまで、自分の元で育てる決意をしました。サムエルは敬虔な家族、敬虔な母親のもとで育てられて行ったのです。ハンナはサムエルが主によって与えられたもの、主に委ねられたものであることを語ります。(1:27,28)それゆえ、彼女はサムエルを献げることを主に約束していたのです。

◆私たちが主によって与えられているものは何でしょうか。私たちが主に献げることができるのは、主が私たちに与えてくださっているからです。一人の祈り深い母親の信仰は、私たちの信仰者としての歩みの中で一つの模範となることでしょう。

坂西恵悟

◆サムエル記は、現代の聖書では上下巻になっていますが、元々は一つの書物でした。ここでは、3人の人物に焦点が当てられています。書簡名となっているサムエル、最初の王様サウル、そしてダビデです。これまでのイスラエルはそれぞれの地域において、神様によって召し出されたリーダー、士師によって治められていました。士師の時代を経て、イスラエルの民は王様を求めます。部族ごとではなく、一つの国としてのあゆみを求めていきました。その結果、イスラエルは士師の時代から統一国家への時代へと変化していきます。

◆1章からは、サムエルの物語が始まります。子どものいないハンナは深い悲しみの中にいました。けれども神様の恵みによってサムエルを与えられたのです。この神様の恵みは彼女の喜びとなりました。そして、喜びは彼女の祈りとなっていきます。神様は高ぶる者に敵対し、謙虚な者を引き上げ、世に悪があったとしても神様は目的を成し遂げる方であること。いつの日か油注がれた王様を送ることが祈られています。(2章)

◆サムエルは成長し、イスラエルの預言者、指導者となっていきます。ペリシテ人の脅威が増し、イスラエルとの対立関係へと発展していきます。ペリシテ人の脅威の中、神様に助けを求めたり、信頼するということをせず、契約の箱をお守りのように使用し、結果ペリシテ人に奪われてしまったのです。神様は災いをペリシテ人に与え、イスラエルの民にも神様の前に謙虚であることを教えられました。

◆高ぶる者が下げられていき、謙虚な者が上げられていく。ハンナの祈りの通りになっていくのです。

坂西恵悟

◆ボアズはルツに言ったように、町の門のところへ行き、自分よりも買戻しの責任を持つ親戚にその責任を果たしてもらうよう、長老たちの前ではっきりとさせようとします。当時の町の門は、裁判や商談などが行われていた場所だったそうです。証人がそこにいて、争いごとなどの決着をつける習慣がありました。ボアズもその習慣に従い、自分よりも近いエリメレクの親戚に長老たちの前で買戻しの責任を果たすのかを確認しました。親戚は、当時の習慣に従って履物を脱ぎ、証人の前でその権利をボアズに譲ったのです。ボアズは、それを受け、証人たちの前で責任を果たすことを宣言しました。(4:1-10)

◆こうして、ボアズとルツは結婚し、二人の間に男の子が与えられました。それを見た女性たちは、ナオミを祝福しました。傷心して故郷に戻り、嘆いていたナオミの心は主にある希望によって回復されていきました。先がどのようになるかわからない。けれども、目の前に起きていく出来事を通して、ナオミは確かな神様の深い愛、憐み、慈しみを受け、確かな神様の導きを受け取っていたことでしょう。たとえ、直接的な神様の語りかけがなかったとしても、神様がいつも共におられ、その言葉と約束によって励まされ、慰められ、信仰者の道を歩んでいたことでしょう。それと同時に、ルツの信仰をも主は目をとめてくださり、救い主イエスの系図へと加えられていくのです。

◆ルツ記には、主の約束を信じて生きる人に与えられる、人間の考えを遥かに超えた神様の恵み、ご計画を見ることができます。神様の救いの計画の中において、私たちの苦しみ、悲しみ、無力感などが神様の力によって乗り越えることができ、希望と喜びへと変えられる姿を見ることができます。イエスキリストの誕生を迎えるこの時、改めて主の約束に希望を持って歩むものでありたいのです。

坂西恵悟

◆ナオミの指示に従ったルツは、ボアズの足下で寝ていました。当時、男性の衣の裾を広げて女性を覆うことは、その相手と結婚する表明だったそうです。この時は、ルツからボアズに結婚を申し込んだ形になりました。ルツの気持ちを知ったボアズは、その思いを受け止め、最善を尽くそうと決意しました。ですから、まずルツに対して主の祝福を求める祈りをしたのです。

◆ボアズは、ルツに提案をしました。確かに、ボアズは責任のある親戚ですが、彼よりももっと近い親戚がいます。その人が、ルツに親戚の役目を果たすのかを確認し、役目を果たさないのであれば、ボアズが責任を果たすというものでした。

◆ここまでのボアズの姿から、彼が感情で行動する人ではなく、主の定められた掟に従順な人であることを見てきました。ボアズとルツは年が離れていたと考えられていますが、そういった中であっても浮き足立たず、ただただ主に信頼し従っている姿を見ることができます。ルツが、朝早く人知れないように帰っていく時、手ぶらで返すわけにはいかないと、大麦六杯を持って帰らせました。ここにも、彼の思いやりをみることができます。ナオミの嘆き(1:21)を逆転させる主の恵みを示すものでもあったでしょう。ナオミは、これを見て、主の恵みによる贖いの時を待ち望むように導かれます。

◆ナオミの「成り行きがはっきりすまでじっとしていなさい」という言葉は、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いをみなさい。」(出エジプト14:13)と語ったモーセの信仰を想起させるものです。

◆ルツ記では、主の語りかけの言葉はありません。しかし、一人一人の行動や言葉には、主の約束を信じる姿を見ることができます。アドベントを迎えるこの時、私たちも主の約束を信じ、待ち望んでいきたいのです。

坂西恵悟

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