◆イスラエルで大切にされていた契約の箱。主が作るように命じられ(出エ25:10)、荒野をさまよっている時もイスラエルの真中にありました。ヨルダン川を渡った時も、エリコの町の崩壊も、この契約の箱が関わっていました。イスラエルの民にとって、見えない神を身近にとらえることのできるものとして、大切にされていたのです。

◆しかし、イスラエルはこの契約の箱を戦いの前線へと持ち出しました。これまでのイスラエルの歴史の様々な場面でキーとなっていたであろう契約の箱。箱そのものに効果はありません。主が臨在されない限り、ただの箱なのです。契約の箱によって、民の士気は高まりました。しかしそれだけでした。イスラエルの士気の高さを恐れたペリシテ人たちは、イスラエル以上に自らを鼓舞し、戦いました。その結果、イスラエルは破れ、契約の箱は奪われていったのです。

◆この敗戦の一番の要因は、契約の箱が自分たちに勝利をもたらすという間違った認識です。たしかにこれまで、契約の箱があるところに勝利がありました。神の臨在を象徴するものとして用いられるはずなので、箱そのものに力があると勘違いしていったのです。

◆この戦いをベニヤミン族の一人が報告しにきます。彼は自分の衣を裂き、頭に塵をかぶっていました。この行為は、嘆き悲しみを表すものでもありました。エリは、契約の箱が奪われたことを聞き、彼の席から落ち、首が折れて死んでしまいました。

◆イスラエルは、間違った神の臨在を求める信仰によって敗れました。悔い改め砕かれた心からの主の言葉に聞き従う信仰によって従うところに主は栄光を表してくださるのです。

◆四旬節が始まりました。イースターを迎えるにあたり、改めて私たちも主に悔い改め、イエスキリストの苦難、十字架、復活を覚えていきましょう。

坂西恵悟

◆エリのもとで主に仕えているサムエルに、主からの呼びかけがありました。彼は、エリが呼びかけているものと勘違いをし、エリのもとへと行きましたが違っていました。エリはサムエルに何が語られたのかを隠さないようにと言い、サムエルに起きた出来事を聞いたのです。エリは言いました。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」(3:18)

◆これまでに主は、イスラエルに対して言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれでした。(3:1)ここで確かに主の言葉がサムエルに臨んだのです。サムエルは成長しました。主が彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはありませんでした。サムエルが主にあって、肉体的にも霊的にも成長したということです。主が共におられることは、信仰者にとって非常に重要なポイントです。サムエルは預言者としてのあゆみを進めていったのです。

◆ダンからベエル・シェバ。すなわち、イスラエル全体がサムエルを預言者として認めました。そのサムエルに主は御言葉をもって、御自身を示されたのです。

◆主の言葉によって成長、成熟していったサムエル。私たちはどうでしょうか。主の言葉にどれほど耳を傾けているでしょうか。情報社会と呼ばれる現代において、私たちは様々な言葉を聞きます。その言葉によって、私たちは、本来聞くべき言葉を見失っているのではないでしょうか。私たちは、日々の生活から御言葉を聞いていきたいのです。主の声を聞くことは、私たちの霊的成長、成熟につながっていきます。私たちは、このことを求めていく者でありたいのです。

坂西恵悟

◆祭司エリのもとで、主に仕えていたサムエル。そのサムエルに主からの呼びかけがありました。当時のイスラエルは霊的にひどい状況でした。エリの息子たちの行動からも、そのことはわかります。「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」(3:1)ともあるように、主が語られることがない状況がイスラエルにあったのです。その時代に、サムエルは主に仕えていたのです。

◆3節では「神のともし火は消えておらず」とあります。主の宮にあった燭台の火が燃え続けていたこと、イスラエルの霊的な状態にも、神のともし火が消えていないそのことを表しているのではないでしょうか。その神の宮でサムエルが寝ている。サムエルが預言者として、霊的なともし火を燃え立たせる者であることを表しているのではないでしょうか。主は、サムエルに呼びかけられました。しかも、1度だけでなく、3度もです。サムエルがしっかりと応答するまで呼びかけてくださるのです。

◆現代の私たちの社会は、イスラエルの霊的状況と同様なのではないでしょうか。主の前に悪とされることが横行している今の社会。けれども主はイスラエルに士師を召し出し、サムエルに語りかけてくださったように、この社会を生きる信仰者たちに対しても、御言葉を通して語りかけてくださっているのではないでしょうか。

◆療養期間中、御言葉を体験する機会が多く与えられました。確かに生きておられる主が、語りかけてくださっている。そのことを体験することができました。神のともし火は決して消えることがありません。私たちは、そのともし火を灯し続けることが大切なのです。

坂西恵悟

今週の一面『 蒔かれた種 』1/31  

Shin1

◆礼拝で「主われを愛す」が歌われた朝、U姉が語られたお話が心に残っています。
「小3の担任の先生は、白髪のおじいちゃん先生でした。先生がクラス礼拝で歌う讃美歌は、きまって『主われを愛す』でした。いつも目をつぶって歌う先生が『わが罪のため』の箇所になると涙を浮かべるのを不思議に思っていました」。
「先生は戦争中の軍隊での体験をよく話してくれました。きっと戦争でつらい経験を幾度もしてきたのだと思います。この讃美歌を歌うと先生の歌声を思い出します。先生がどんな思いで賛美していたのか、今なら思い描けます。先生がクリスチャンだったか、それさえも、わからないけれど、幼かった頃からずっとこの歌詞をずっと覚えていたのも、蒔かれた種のひとつだと感謝しています」。

◆クリスチャンの家庭で育ったわけではないU姉は、その後ウン十年経って、こどものつながりで知り合った友人を通して、聖書を手にとるようになり、バプテスマを受けられました。蒔かれた信仰の種が、時を経て芽を出したこの出来事に、主のご計画の深さ、広さ、大きさを思います。

◆教会にさまざまな形で招かれたこどもたちの顔が目に浮かびます。今は教会に来ていないけれど、やがていつの日か、神様が選ばれた時に、蒔かれた種が芽を出すことを信じて祈り続けます。かく言う私も幼い頃、隣家のおばちゃんに連れられて教会に行ったことがきっかけでした。その後、長いこと教会に行ったことがなかったにもかかわらず、大人になって神様の愛を知る者に造りかえられたひとりですから。
「昔 主イエスの蒔きたまいし いとも小さき生命の種
 芽生え育ちて地のはてまで  その枝を張る樹とはなりぬ」
(新生讃美歌389番)

◆会堂にこども達の声が響き、足音が聞こえる恵みを感謝します。主が備えてくださる希望の種を、共に手を携えて蒔き続ける喜びを主に捧げつつ。

西原寿美子

今週の一面「見ること」の魔力 1/24  

Shin1

◆ある予防医学書に「目について」次のようなことが書かれていた。「人間の脳と連結している神経の中で、視神経が占める割合はかなり大きい。それほど目は脳の諸機能に多大な影響を及ぼしている。目の疲労は心身の病苦と結び付く。目を酷使すれば頭痛になり、すべてのことが煩わしくなる現象もそのためである」と。

◆キリストも目と体の相関関係に言及して「目は心のあかり」(マタイ6:22)であると言っておられる。

◆人は、愛する対象を見つめるようになる。また、見つめる対象を愛するようになる。目が向かうところに心も従う。つまり「見ること」の魔力である。この魔力には、どんな強い人も立ち向かうことはできない。人間の罪も「善悪を知る木の実」(創世記3:6)を見つめることから始まった。

◆ラジオに比べテレビの影響力が大きいのは、テレビを見るときには聴覚とともに視覚も動員するからである。多くのメディアが人々の視覚を奪おうと血眼になっている。現代の戦いは、霊的戦いであり「たましいの争奪戦」である。

◆詩編の記者は「むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください」(詩編119:37)と懇願している。

◆人は誰でも愛する対象を見つめるようになり、その見つめるものに似るようになる。クリスチャンは、主を見つめることによって主に似るようになる。視線をいつも主に集中させ、最大のストレスである罪から自由になった人生を歩もうではないか。

石田政美

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