◆サムエルは、年老いました。彼は毎年、ベテル、ギルガル、ミツパを巡回してイスラエルを裁いていました。彼が年老いた時、彼の息子たちをイスラエルの裁きを行う者として任命し、ベエル・シェバに遣わしました。ベエル・シェバは、イスラエルの南部地方に位置しています。サムエルが年老いたことにより、サムエルは北部地域を、息子たちに南部地域を任せていきました。しかし、息子たちはサムエルと同様の道を歩まず、自分たちの利益を追求し、賄賂を受け取り、裁きを曲げていました。

◆イスラエルの民は、このような状況を受けて、王を立てて欲しいと求めました。サムエルが高齢となり、その息子たちの歩みが主の道を歩んでいなかったからです。サムエルにとって、彼らの言動は悪と映りました。別の聖書の訳では「気に入らなかった」(8:6/新改訳)となっています。イスラエルを裁く者として用いられているサムエルの働きを否定するようなことだったからでしょう。サムエルは、主に祈りました。主は、民の言うことを聞き入れるように言われました。

◆イスラエルの民が求めていたのは、目に見える安心でした。彼らはサムエルを拒んだのではなく、主なる神様が治められることを拒んだのです。またもや、同じ過ちを繰り返します。神の箱に力があると勘違いをし、悔い改めたにもかかわらず、彼らは目に見えない主なる神ではなく、目に見える人間の王様を求めていったのです。出エジプトの時も同様でした。目に見える神を求め偶像を作りました。約束の地に着いた後もそうです。主なる神を捨て、他の神々に仕えていました。

◆改めて、私たちは自分自身に問いたいのです。あなたは、神に信頼して歩んでいますか。私たちは、このイスラエルの失敗から学んでいきたいのです。

坂西恵悟

◆神の箱はベト・シェメシュからキルヤト・エアリムへと移されていきました。キルヤト・エアリムはエルサレムから15kmほど離れた場所にある町です。キルヤト・エアリムの人々は、丘の上のアビナダブの家へと神の箱を運び、エルアザルに箱を守らせました。それから、20年の月日が経ちました。その間、イスラエルはペリシテ人によって苦しめられてきました。イスラエルの中には、ペリシテ人の神々や異国の神々を礼拝する者たちも起こされていったのです。しかし、そのような中にあって、イスラエルは主への飢え渇きがありました。(2節)

◆サムエルは、そのイスラエルに対して語りました。バアルとアシュトレトの神々を取り除き、ただ主にのみ仕えるようにと命じたのです。ここから、サムエルの預言者としての働きがスタートしていきます。また、サムエルはそれだけではなく、人々をミツパに集め、水を汲み、断食をし主に悔い改めたのです。

◆一方ペリシテ人は、イスラエル人たちがミツパに集まったのを聞き、その集まりが戦争の準備だと思い、イスラエルに向かってきました。このことを聞いたイスラエルは、とりなしの祈りを献げるようにとサムエルに求めたのです。サムエルは彼らの願いに答え、主に祈りました。それは叫びでした。結果、主は答えられてペリシテを打たれました。

◆この一連の物語は、私たちの信仰生活にも密接につながっているのではないでしょうか。主以外のものを第一とし、仕えるのではなく、ただ主にのみ仕え、主の前にへり下り、悔い改めるところに、主は働いてくださるのです。
「慈しみとまことは罪を贖う。主を畏れれば悪を避けることができる。主に喜ばれる道を歩む人を主は敵と和解させてくださる。」(箴言16:6,7)

◆主を畏れ、主に喜ばれる歩みをする者には、主の平和が与えられます。様々な問題にぶつかるとき、私たちと主との関係はどのような関係になっているでしょうか。まず、主との関係を大切にしていきたいのです。

坂西恵悟

◆イスラエルは、ペリシテ人との戦いに敗れ、神の箱を奪われてしまいました。奪われた神の箱があるペリシテでは3つの出来事がおきました。ダゴンという偶像が破壊され(5:2-4)、災害がもたらされ(5:6)、町の住民の間に腫れ物が広がりました。(5:9)このような結果、神の箱はペリシテの様々なところにたらい回しにされ、ペリシテ全体が恐怖に陥ったのです。触らぬ神に祟りなしの状態となったペリシテは、神の箱を返却することを決めたのです。

◆ペリシテ人は、神の箱をイスラエルに返すにあたり、何もつけないで返すのではなく、賠償の献げ物も一緒にして返すことにしました。賠償は一般的な賠償というよりも、「罪過のためのいけにえ」という意味のものになります。すなわち、彼らは自分たちが罪を犯したことを認めたのです。その罪の償いをすることによって、自分たちにのしかかっている神の手を軽くしてくれるのではないかと考えました。出エジプトの時のエジプトを例にあげ、彼らのように頑なにならないようにと考えたのです。

◆ペリシテ人は、神の手が重くのしかかっていても、7ヶ月間放置しました。神の箱に原因があると決めてそのようにしていたのです。町中から助けを求める叫び声は絶えませんでした。主の前に悔い改めるということをしなかったからです。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブライ3:15)とあるように、私たちは主の前にへりくだり、悔い改めていきたいのです。主の御声を聞く時、心を頑なにするのではなく、忠実に誠実に御声を聞いていくものでありたいのです。

坂西恵悟

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