『 晩年における訓練 』 7/25  

Shin1

〜使命に生きる〜
◆クリスチャン詩人である星野富弘さんが、「命一式」というすばらしい詩を書かれています。
 「新しい命一式、ありがとうございます。大切に使わせて頂いておりますが、大切なあまり仕舞い込んでしまうこともあり、申し訳なく思っております。いつもあなたが、見ていてくださるのですし、使いこめばよい味も出てくることでしょうから安心して思い切り使って行きたいと思っております。」

◆私はこの詩を読んだとき、「使命」ということを強く思わされた。星野さんは若いとき、事故で首の骨を折って四肢麻痺になりました。そのような状況で口で筆をくわえて絵を描き、それに詩を添えるということを使命にしておられます。

◆使命という字は、「命を使う」と書きます。安心して思いっきり与えられている「命一式」を使っていくことが「使命に生きる」ということではないでしょうか。

◆晩年を迎えて、「使命に生きる」とは、どんな生き方をしたらよいのかと祈り求めておりましたら、次の御言葉が与えられました。

 「年老いて、しらがになっても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」(詩編71:18新改訳)

石田政美

◆ヨナタンとの別れを告げたダビデは、サウル王から逃げる逃亡生活が始まります。この逃亡生活は、このあと29章まで続いて行きます。ダビデが向かったノブという町は、「祭司の町」(22:19)と呼ばれていたことからも、重要な場所であったと思われます。

◆ダビデは恐れを抱きながらもまず、祭司のもとへと逃げ込みました。長い逃亡生活のはじめに祭司を選んだのです。ここからも、ダビデが危機に遭遇した時、預言者や祭司のところに最初にいくのは、預言者たちが神様の言葉に関わる人物であり、ダビデは自分の将来を神様に委ねる信仰を表明していたことがわかります。ダビデは、サムエルから油注がれ、王様となることが神様のご計画でした。その歩みを見る時、ダビデのもとに確かに主が共におられることが明らかにされていました。

◆しかし、ダビデはアヒメレクに嘘をついてその場をしのぎ、パンと武器を得ました。もし、正直に話していれば、匿うこと自体が王に対しての反逆行為ととられていたことでしょう。22章では、その場にいたドエグというサウルに属する牧者によって、密告されることが書かれています。

◆ダビデは、ペリシテのガトの王アキシュのもとへと逃げました。しかし、ダビデであることを知られ、ダビデはアキシュを非常に恐れたのです。ダビデは、気が狂ったような振る舞いをし、その場を凌ぎました。

◆生きることは、綺麗事だけではできません。神様の守りもただ眠っていて与えられるものではありません。主の守りを信じるがゆえに、生きる努力が必要なこともあるのです。様々な計略を行ったダビデ。そのダビデの背後には、確かな神様の導きがありました。たとえ、困難の中にあったとしても、主の導きと守りがダビデの上にあったのです。ダビデは、逃亡の中でそのことを学んでいったのでしょう。主への信仰を深め、主の守り、導きが表されるのです。

坂西恵悟

◆サムエル記上の20章では、ダビデとヨナタンの友情の物語が記されています。この20章以降、ダビデはサウルのもとを離れ、逃亡生活を始めます。ダビデとヨナタンの深く結ばれた友情がありましたが、そこから離れなくてはならなくなったのです。

◆サウルは嫉妬、激しい憎悪と敵意をダビデに向けました。19章では明確にダビデを「敵」と認識しました。(19:17)しかし、ダビデは、ヨナタンをはじめ、サウルの娘ミカルや預言者サムエルの助けによって、難を逃れたのです。ここに確かな神様のご計画がありました。神様に油注がれた者とされていたダビデ。神様のご計画の中で、イスラエルの王への道を歩むことになるのです。

◆ヨナタンは、サウルがダビデを殺そうとしていることを知り、ダビデにその旨を知らせました。(20:35-)厚い友情で結ばれていた二人が、離れ離れにならなくてはいけなかったのです。ダビデとヨナタンは、別れる際に約束をしました。ヨナタンは、決してダビデを裏切らないということ、ダビデは自分が王様になっても、ヨナタンの家系を無くさないことを約束したのです。事実、サムエル記下には、ヨナタンの息子に対して、その約束を履行する箇所があります。(サムエル記下9章、21:7) ダビデとヨナタンの愛は、神様と人の関係で与えられている愛と同じものです。ですから、この2人は主の愛によって、互いに愛し合っていました。その愛によって、お互いの家のために契約を行ったのです。

◆ダビデとヨナタンの愛は、神様と人間との愛と同じ言葉が使われています。主なる神様が、私たちに対して与えてくださった永遠の契約は、決して無碍にされることはありません。その確かな希望をいただきつつ、歩んでいきたいのです。                    

坂西恵悟

「主の守り」サムエル記上19章. 7/4  

Shin1

◆ダビデに対しての敵意を向けたサウルは、息子のヨナタンも含め家臣全員にダビデを殺すように命じました。しかし、ヨナタンはダビデにサウルが殺そうとしていることを伝え、彼を逃し、父サウルに対してダビデを殺すことの不当性を主張したのです。

◆息子ヨナタンの主張を受け、ダビデを殺すことをやめたサウルでしたが、悪霊の働きにより、再びダビデを殺そうと行動に起こします。琴を奏でるダビデを襲い、逃げていったダビデを殺そうと命じていくのです。そのサウルの計画は娘のミカルにも妨げられていきました。ミカルはダビデを逃し、ダビデはサムエルの元へと避難していったのです。

◆ダビデはこの時のことを背景に詩編59編を書きました。この詩編からも分かる通り、ダビデは主なる神様への全き信頼を持って逃げていました。苦しみの中にあっても主をたたえ、主が与えてくださる希望を信じていました。このダビデの願い通り、主なる神様は確かにダビデを守られたのです。

◆一方サウルは、変わらずにダビデを殺そうと計画し、ダビデを追ってラマへと向かいました。しかし、主の霊に妨げられ、一昼夜裸のままで倒れ、王の権威も威厳も、面目も失われるようなこととなっていったのです。サウルの計画はすべて失敗に終わりました。神様の計画に反抗し、その感情に身を委ねていった結果でした。
 ダビデは、神様の支配と導きに委ねる信仰を持っていました。神様はそのような信仰者とともにおられ、救いの導きを変わることなく与えてくださっているのです。

坂西恵悟

「妬みの罪」サムエル記上18:5-16 6/27  

Shin1

◆ペリシテ人のゴリアテに勝利したダビデは、そのままサウルの元へ召し抱えられました。そこで、サウルの息子ヨナタンとの深い友情が生まれました。ダビデは、サウルが派遣するたびに出陣し、勝利を収めていきました。戦いの勝利は、全ての兵士、サウルの家臣に喜ばれることでした。

◆しかし、このことをサウルだけは喜びませんでした。戦いから戻った兵達をイスラエルのあらゆる町から女性たちが出て喜びながらサウル王を迎えました。しかし、実際に迎えられていたのはダビデでした。「サウルは千を討ち ダビデは万を討った」という歌はサウルとダビデの武勲を称えるものでしたが、サウルはこれが自分自身に対してのものではなく、ダビデの良さが称えられる歌と受け取ったのです。サウルは、この時から、ダビデを妬みの目で見るようになり、ダビデを敵視するようになりました。

◆以前、礼拝メッセージの中で「sin」と「crime」について話したことがあります。まさにサウルの内には妬みという「sin」が起こり始めたのです。その「sin」は積み重なってダビデを殺そうとする行動へと発展させていきました。サタンは、人間のこのような罪に入り込んできます。サウルもそうでした。

◆妬みは、私たちを本来向ける方向から別の方向へと向けます。神様へ向くべきところをそれ以外のところに向けさせます。コヘレトでは「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」(コヘレト4:4/新改訳)とあります。ですから、私たちは本来向くべき方向に目も心も向けていくことが大切なのです。

◆ダビデの勝利は、主からのものでした。主から目をそらしたサウルに待っていたのは、罪でした。私たちは、罪を犯してしまいます。その時に主に悔い改め、主を見上げて歩むものでありたいのです。

坂西恵悟

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