◆29章でダビデは、イスラエルとの戦い場へむかったペリシテ人アキシュのもとを後にしました。一方で、家族たちのいるツィクラグにアマレク人が攻めてきたのです。ダビデたちは家族が喜んで迎え入れるだろうと期待をしていたことでしょう。しかし、町はアマレク人によって攻められ、略奪されていたのです。誰一人殺されることなく、捕虜として連れさられ、町は火を放たれて焼き落ちていました。このことにダビデと兵たちは泣く力がなくなってしまうほどに泣き、憔悴しきってしまいました。兵の中には、ダビデを殺そうと言う者たちも出てきました。そんな中、ダビデは「主によって力を奮い起こした」のです。

◆主によって力を奮い起こしたダビデ。私たちも窮地に立たされたとき、主によって、主の御言葉によって奮い起こせることができるのならば、なんという幸いなんでしょうか。もちろん、ダビデたちのように憔悴しきっている状態から立ち上がるのは簡単ではないでしょう。しかし、主なる神様の憐れみ、いつくしみ、愛を思い出す時、弱さを通して働かれる神様の確かな力を私たちもいただくことができるのです。

◆ダビデは、主によって力を奮い起こしたのち、アマレク人を追うべきなのか、主に伺いました。主は明確に「追跡せよ。必ず追いつき、救出できる。」と答えてくださったのです。アマレク人がどちらに進んだのか明確にわかりませんでした。しかし、主が示してくださった答えに確信を持ち、進んでいったのです。

◆私たちも主によって力を奮い起こし、主が示される道へと確信をもって進んでいこうではありませんか。

坂西恵悟

◆サウルから逃げ、ペリシテのアキシュのもとへと行ったダビデ。いよいよ、戦いの場へと出ようとします。イスラエルとの戦いを迎えようとしているダビデは、アキシュと共に行動をしました。しかし、ペリシテ軍ではダビデの参加を快く思わない人たちが多数いました。それもそのはず、これから戦おうとしている国の人間であり、国王のサウルに近しい人物でもあり、「サウルは千をダビデは万を」と言われるほどの人物が近くにいることは不安でしかないのです。まして、しんがりをつとめようとしていたわけですから、自分たちの背中を打たれるかもしれないという不安もあったことでしょう。アキシュは、ダビデと1年4ヶ月共に過ごし、ダビデがそのような人物ではないことを知っていました。しかし、他の武将たちは違っていたのです。ダビデは、アキシュと共に戦うことを求めましたが、アキシュの説得により、戦いの場から離れていきました。

◆このことは、結果として、ダビデに3つのことを守らせることができました。①イスラエルと戦うことから守られ、②個人的に恩義のあるアキシュに背くことから守られ、③ツィクラグにいる家族に起こった危機に対応することが守られた(30章)のです。

◆神様の御計画は、私たちの想像を遥かに超えるものです。また、私たち人間の思いや考えも計算に入れられているでしょう。主に信頼する者に、主は助けを与えられるだけでなく、罪多き者にも、主の大きな憐れみと救いを、私たち人間の思いをはるかに超えたところからお与えになられることがあるのです。

坂西恵悟

◆25章に次いで、28章でもサムエルの死が記されています。サウルとダビデの霊的な指導者であったサムエルの死が記されることは、ここで登場するサウルの霊的な行動がどのようになっているのかを見ることができます。

◆サウルは、ペリシテの軍勢との戦いの時を迎えていました。ペリシテ人はシュネムに陣を敷き、イスラエル軍はギルボアに陣を敷いていました。イスラエルをはるかに凌ぐ軍事力を持つペリシテの陣営を見て、サウルの心は恐れていました。その時、サウルは主に託宣を求めました。主の御心を求めたサウルでしたが、彼の求めに対して、主は応えることはなさりませんでした。

◆主からの応答がない中、サウルは主に悔い改めるのではなく、国内から追放していた「口寄せのできる女」を呼び戻そうとしました。申命記18:10-14の教えに従っていたにもかかわらず、自らそれを破り、呼び寄せようとしたのです。口寄せは日本にもあるものです。この口寄せによってサムエルが現れたその理由は分かりませんが、そこで語られた言葉は神様の御心の決定的な裁きの言葉でした。(28:16-20)

◆サウルは、サムエルの言葉を受け、ノックアウトの状態になりました。食欲もなく、おびえきっているサウルの姿では戦うことができません。このサウルを慰めたのは、口寄せの女でした。まことの神様に背く王様の惨めな姿を見ることができます。

◆主の声を聞き、従い続けることは簡単なことではありません。それでも私たちは聞き続け、従い続けることが必要なのです。そのことを中心に据えて歩むことが必要なのです。

坂西恵悟

◆私たちの人生は板挟みの状態を経験することが多くあります。家族、職場、友人関係の中にも起こります。聖書の時代も同様でした。この27章でダビデはまさに板挟みの状態に置かれるのです。

◆ダビデの人生を見ると順風満帆ではありません。このことは、ダビデだけでなく全ての人に当てはめることができます。良いことも悪いことも起こりました。それでも、このダビデの姿からみることができるのは、神様の慈しみと恵みを見ることができます。神様の働きに目を向けないのであれば、ダビデの人生は模倣すべきものではないでしょう。神様の恵みに目を向ける時、ダビデを通して私たちは神様からの励ましを受けるのです。

◆ダビデはペリシテの地へと逃れていきました。そのきっかけはサウルに対する恐れです。恐れを持つと人は正常な判断が難しくなります。サウルのことは神様の御手に委ねているはずでしたが、それでも恐れを覚えていたです。ダビデは自分の家族、兵士とその家族を引き連れ、アキシュのもとへと行き、ツィクラグに住みました。

◆ダビデはアキシュの信頼を得るために行動を起こしました。イスラエル人であるダビデがペリシテの地で住むために必要なことだったのです。ダビデは、ペリシテ領にある町の人々をうち、その町がイスラエル領のものであるように思わせました。アキシュはダビデの言葉を信用し、ダビデが忠実な部下であると思ったのです。

◆サウルを恐れてペリシテへと逃げたダビデ、そのペリシテで行った偽りの行動。このことを見ると、ダビデに幻滅してしまいます。それでも、その背後におられる主なる神様の確かな恵みがダビデに注がれたように、キリストの故に私たちもその恵みに預かることができるのです。

坂西恵悟

『 御国内定 』 8/29  

Shin1

「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」ヨブ記1章21節

◆ヨブ記の箇所を読み進めていくと、その剥奪は理不尽なまでも激しく、信仰を試されるには悲痛を覚えて理解し難いものがある。

◆祖父母は日本統治下の台湾で終戦まで暮らしていた。
広大な土地で農園と植物園を営み、大きな屋敷には幾人もの使用人を抱え、何不自由なく母も豊かに生まれ育ったという。1945年の夏を境に一転する。

◆神奈川の浦賀に船で引き上げた時には、下着3枚、洋服3着、靴はなく、一家で1万円を所持金として渡され、栃木へ移住して農業を始めた頃に、生まれたばかりの子どもと共に祖母は亡くなってしまう。しばらくして祖父は農薬の影響で皮膚病を患い、その後、眼球を1つ摘出する身体になってしまった。幼い頃、夏休みに祖父の田舎に行けば、「おじいちゃんが貧乏で病気になった物語」を聞くのが私のお気に入りでした。大人になって聖書に出会い、先のヨブ記を通読すれば、祖父のヒストリーを思い出す。

◆ヨブは神によって義とされ、最難関である御国内定を受けた人物。この狭き門への内定決定はクリスチャンにとって麗しい輝きあること。祖父が亡くなるまで私に言い伝えてきたことに、「人に盗まれる財をたくさん持たず、誰にも何者にも奪われないものを持ちなさい」信仰こそ、そのようなものであると私は思う。この信仰が幾度も試されようと、御国内定へ向かっていきたいと思います。

守屋まゆ美

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