「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けなさい』」
(ヨハネ20:22)

◆「聖霊を受けよ。」ユダヤ人を恐れて不安におののく弟子たちに語られた復活のキリストのことばです。弟子たちにとって何よりも大切なことは聖霊を受けることでした。主は「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」(使徒1:8)と言われました。「神の国は言葉ではなく力にある」(I.コリント4:20)とあるように信仰はことばではなくて力です。その力は聖霊を受ける時に与えられるのです。

『 荒野で恵みを受ける 』 5/13  

Shin1

◆「荒野で恵みを受ける」(エレミヤ31:2)は、私の信仰を表すのにもっとも相応しい御言葉一つです。荒野という所は恵みのない所、人が住めない所、見捨てられた地です。モーセは40年の荒野での教育をとおして、初めて神様に立てられました。神様は私たちをモーセのように用いようと、私たちに荒野を備えられます。

◆東日本大震災から「絆」ということが言われています。現実の人間と人間の絆、家族の絆は、何があっても破れないほど頑強なものでしょうか。些細な行き違いでもろく崩れ去ることがあります。「家庭の平和」が破られるということはむしろよくあることです。

◆ヘブライ語において「柔和」ということばは、「野生の馬を飼い慣らす」という意味があります。野生の馬のような人はどのような人でしょうか。たとえ力があっても、主人の思いどおりに動かない人です。野生の馬は、どんな馬より力がありますが、だれも野生の馬に乗ろうとしないでしょう。なぜなら制御されていない力は災いだからです。

◆「イエス・キリストを信じるなら、すべての問題は解決して、平坦な道を歩むことができる」ということを聞くことがありますが、そうではありません。聖徒は成功と平安を約束されているのではなく、依然として失敗と苦しみも経験します。聖書はむしろ、失敗と苦しみを通して成長することができると教えています。

◆「神様にすべてのことをゆだねる」と言って、何の努力もしない人がいるとします。これは神様にゆだねているのではなく、意欲を失った状態なのです。「欲がない」ということは、「意欲がない」ということとは全く違います。神様にすべてのことをゆだねるということは、自らの欲を捨てるという意味であって、意欲を捨ててしまうのではありません。神の支配の中にあることを信じて、蛇のようにさとく(知恵深く)、鳩のように従順な(神にゆだねる)人が本当に賢き人と言えます。

◆モーセは敵に囲まれた環境の中で生まれました。モーセが生まれた時代は、ヘブライ人に敵対する王ファラオがエジプトを治めていた時代でした。ヘブライ人は奴隷として重労働を課せられ、さらに乳児殺害の恐怖に震えていた恐怖政治の時代だったのです。

◆モーセ!その名前を聞いただけで、私たちの胸は高鳴ります。モーセはイスラエルの陰鬱な時代に生まれました。ファラオの娘に拾われ、エジプトの文化の中で育ちました。そして荒野に逃げた後、神様の召しを受けて用いられるようになりました。

◆私たちは、どうしたら前進することができるのでしょうか。健康に成長することができるのでしょうか。自分の内なる人が変えられる時に、前進し、成長します。問題は私たちの外側にあるのではなく、内側にあるのです。民数記、申命記を見ると、イスラエルの民が前進したのは、外にいる敵が滅びた時ではありませんでした。イスラエルが前進した時はただ一つ。イスラエルが変えられた時だけだったのです。

◆「モーセ」と言う時、出エジプトの英雄を思い浮かべます。しかし、モーセは矛盾のかたまりのような人でした。彼は主のために働く預言者でしたが、口下手でした。また口よりも手が早く、短気な人でした。さらに神様に呼ばれても「だめです。できません」と答えるような、否定的な気質の持ち主でした。しかし、神様はモーセを用いられました。モーセのような人がリーダーとして用いられる可能性は少なかったでしょう。けれども、神様はモーセをお用いになられたのです。賜物よりも力よりも重要なのは、「神様に用いられること」です。

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