◆主イエス・キリストの最後の日々「受難物語」と言われる一連の物語を読み進めていくと、徐々に主人公であるイエス様ご自身が、ひとり孤独な姿で、ぽつんと浮かび上がってくる印象を受けます。

◆最後の晩餐の数時間後に、ゲッセマネの園で主が逮捕された時、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げ出しました。裁判が行われている時、弟子たちは誰ひとりイエス様の証人として立ちませんでした。ゴルゴダに向かうイエス様の十字架を運んでヴィア・ドロローサを歩いたのは、ペトロではありません。イエス様がつけられた十字架の左右で一緒に処刑されたのも、弟子たちではありません。そして、イエス様の遺体を取り降ろしたのも、その体を清めて墓に納めたのも、弟子たちではなかったのです。

◆同じ時間、同じ場所で、同じパンとぶどう酒にあずかりながら、虚勢を張る弟子たちの姿の中に、「やがて起こるべきこと」をよくよく知りながら、自分を見限る者たちと共に生涯最後の食卓を囲んでいるイエス様の姿、ひとり孤独な姿が浮かんできます。

◆「私は信じています。大丈夫です」と自負しながら、いざとなると弱さを暴露し、自分の都合次第で、主と仰ぐ人を捨て、信仰を投げ捨てて、逃げ散っていく弟子たち。イエス様の弟子とは、ひとりの例外もなく、「そんな人間たち」ばかりが集まって、主と共に、主の人生における最後の食卓を囲んでいる。それが、最後の晩餐の情景です。

石田政美

◆レントの期節は、イエス様のご生涯の最後にあたる受難の日々、十字架に至るまでの主の歩みを覚える期節であり、私たちキリスト者ひとりひとりが自らの信仰を新たに顧みる期節でもあります。

◆ガリラヤ湖の周辺を中心として、ある時は徒歩で、ある時は舟に乗り、さまざまな人々との出会いを重ねて進んできたイエス様の生涯の道行きは、その終わりに近づくにつれて、徐々にそのペースを落としていくように感じられます。

◆イエス様は、その最後の日々のために、エルサレムに子ロバに乗って入城し、弟子たちと共にエルサレムに留まり、敵対する人々により逮捕され裁判にかけられ、そして、重い十字架を担ぎながら、ゆっくりとした歩みで、ゴルゴダへ向かい、最後に十字架につけられ、もはや完全に身動きすることもできない状態で殺されます。レントは週ごとにだんだんと落ち込んでいくような徐々にスローダウンしていく印象を受けます。

◆レントは、日常生活の忙しさにかまけて、いつもはイエス様やその周辺に登場する人々の姿をゆっくり見つめることをしない私たちが、そのペースを落とす期節です。そして、十字架を担うイエス様が、のたり、のたりと、ゴルゴダに向かって歩みつづける姿にじっと目を注ぎ、十字架の周囲の人々の言動に目を注ぐ期節です。

◆それと同時に、私たちが、十字架のイエス様から、じっと見つめられていることに気づく期節でもあります。それがレントです。

◆それにしても何と現実のこの期節は忙しいことでしょうか。

石田政美

今週の一面 『愛と平和の神が』2/25  

Shin1
コリントの信徒への手紙二 13章 11節
『終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。 』


◆パウロがコリントの教会の信徒に向けた手紙の最後に書いた内容です。
コリントの教会は、パウロの熱心な伝道によって生まれた教会でした。そのコリント教会のクリスチャンは色々な問題を抱えていました。教会も問題を抱えていました。そんなコリント教会に向け、また、その一人一人に向けて励ましの手紙を綴っています。この手紙の前にも、パウロはコリント教会の問題点を指摘する、受け取るものには非常に厳しい手紙を書き送りました。沢山の涙を流しながらパウロは手紙を書きました。しかしそれはコリント教会の人たちを問い詰め、悲しませるためではなく、パウロの抱いている彼らへのあふれる愛を知らせ、教会の一人一人に、神の愛と平和が充ち満ちることを願ってのことです。愛のない批判、非難は人を滅びに至らせます。しかし、愛の込められた訓戒は人を生かします。

◆喜びの中には、今の状況を超えた神様のご計画への期待があります。
完全な者になるには、完全であられるイエスキリストの似姿に近づく姿勢があります。
互いに励まし合う中には、愛が満ちています。
思いを一つにする中には、互いの違いを超え、祈り合う姿があります。
平和を保つ中には、お互いへの思いやりが込められています。

◆愛と平和の神が私たちと共に歩んでくださる、そんなJOY教会であり続けたいと願います。 

濱田眞一

◆私は、家事や仕事の関係で、強いられて"朝型の生活"に変えられて、5年程度になりました。ようやく定着してきた平日の朝のディボーションですが、せめて土曜日くらいは朝寝坊したいと思い、至福の時間を過ごしていました。ところが、教会の隣地を取得するかどうかという"神様からの宿題"が出されたのを機に、「このことは本当に神様の御計画なのか否かを祈り求めねば!」と思い、神様の御心が分かるまでは、教会で土曜朝のディボーションの時を持とうと決心しました。

◆11月から始めた土曜早朝ディボーションは、挫けそうになりながらもなんとか続けられ、やがて隣地の取得のことがアンケート調査の結果、現実味を帯びてきました。すると次は、「臨時神の家族会で決議できるだろうか?」と祈り、「横浜市の入札で落札できますように!」と祈り、次々と祈りの課題が湧いてきて、止められなくなってしまいました。隣地の落札が決まった後も、次期牧師招聘のことで更に祈ることになりました。不思議な"祈りの連鎖"となりました。

◆最近は、日の出の時刻も少しずつ早くなってきましたし、ディボーション後の朝食の交わりの時や週報の印刷なども楽しいひとときです。

◆夜の祈り会で学んだ"ディボーションの時を継続するための秘訣"は、ディボーションができなかった時に、①自分を責めないこと、②律法主義に陥らないこと、③あきらめないこと、だと指摘しています。是非参加してみませんか?

『正しいことを行うのに疲れ果ててしまわないようにしましょう。失望せず、あきらめずにいれば、やがて祝福を刈り取るようになるからです。』(ガラテヤ 6:9)

澤田 猛

◆2月11日は、日本の国の法律では、「建国記念の日」となっていますが、実質的には、「紀元節」です。日本は、初め「神代三代」と呼ばれる神々による統治がなされた後、神武天皇を初代とする天皇の治世が始まったものとされています。なお、神武天皇が天皇に就いたのは、紀元前660年2月11日のこととされています。これを根拠に、この日が日本建国の日とされ、国民の祝日に関する法律により「建国記念の日」とされているわけです。

◆教会では、「信教の自由を守る日」としてこの日を守っています。日本の教会が戦争中、たいへん苦い、またつらい思い出を持っている日です。そこでこの日を忘れることがないために、この日を定めているわけです。使徒言行録4章19節「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」から、私たちは最終的にどなたに従うのか、言い換えると、何を最も尊いものとするのか、というのが、今日の問題の中心点であると言っても良いと思います。

◆今日私たちの国では、信教の自由を定めている憲法の規定(憲法20条)に自民党の改憲草案は巧妙に削除と挿入を施して、国家による信仰の領域への介入の道を開こうとしています。そして<天皇を中心とした神の国へ>そのために<道徳教育強化><愛国心><靖国神社の国家護持>さらに<平和憲法9条改悪>などを目指しています。

◆差し迫った危機に向かって、真実は何かを見失わないように祈り、霊の目をはっきり開かせていただきたいと思います。

石田政美

◆ヨセフの父、ヤコブ(別名イスラエル)は数奇な人生を歩みます。非常に人間的であり、同時に非常に信仰的な人でした。双子の兄と仲たがいをして、母方の伯父のところに逃げ、伯父にだまされ、好きだった妹でなく、姉と結婚させられ、その後、妹とも結婚します。今では考えられないことですが、灼熱の厳しい自然環境の下、女性は生存するため一夫多妻に甘んじざるを得なかったと考えられます。妻となった姉と妹は、自分たちの子どもを産み、さらに自分の女奴隷を夫に与えて、子を産ませます。4人の夫人が合計12人の男の子を産みました。これが「イスラエル12部族」の祖になります。

◆ヤコブは長い年月の後に、仲たがいをしていた兄と父イサクが住む土地に帰ってきます。ところが自分の12人の子どもたちの1人、末から2番目の息子が生意気で、兄たちに憎まれ、エジプトに売られたのがヨセフなのです。ですからヤコブ物語の後半は、このヨセフが主人公になります。大きく見れば、ヤコブ物語の一部です。

◆ヤコブは臨終の時、息子が思い悩むことのないようにと、確信をもって、「神はあなたたちと共におられる」(創世記48:21)と言ったのです。「神が共におられる」私たちひとりひとりと共に、私たちの家族と共に、私たちの教会と共におられる。イエスという名そのものが、インマヌエル  神が共におられる  ではなかったか。神が共におられることは最高のことではないか。神を信じる人すべてがこの幸いなことばを楽しむことを心から祈り、「ヨセフ物語」の説教を終わります。              

石田政美

◆榎本保郎先生の著書「祈りと瞑想への道」に次のような文章がある。  
私は次のような証しを読んで、自分の信仰の姿勢について深く反省させられた。それは一人の英国の婦人の話しである。彼女の境遇は、大変お気の毒なものであったが、その表情は輝いており、神と共に歩むその香りは、さながら花のようであったという。英国はその女性がいたことで、どれほど恩恵を受けたことであろう。その放つ「芳香はかぐわしく、神聖で、天的であった」と記されている。それほど輝いた生涯にはいる前に、彼女は一つの祈りを捧げたという。それは、「神よ、私に三つの傷を与えたまえ。悔いくずおれる傷と、あわれみを感じさせる傷、そして神を慕い求めてやまない傷を与えたまえ。父よ、それを得るためなら、私は、いかなる条件もつけません。わが願いを聞き届けてください。その"請求書"をあなたの御心通りに書いてお送りください。その額がいかほどのものであれ、それは私にとってふさわしいものです。」という祈りです。  

◆私たちは、いつのまにか熱心に求めても「捨てる」ことをしないあの富める青年と同じ状態になっている危険を思わされた。傷ほど我々の中にある自信やプライドを取り去ってしまうものはない。傷ほど助け手を求める心を与えるものはない。たとえどのような請求書が神からこようとも、その請求書通りに支払う者でありたい。       

石田政美

◆1月も半ばが過ぎようとしています。私の実家では1月7日は毎年七草粥を食べる習慣がありました。諸説あるようですが日本では平安時代からその記載がある伝統文化の様です。お正月気分も終わり、冬休みの宿題の残りに切迫感が出てくる時期の美味しくないお粥。楽しいお休みを終えて現実に戻っていく象徴のような、小さいころの私には印象深い食べ物でした。

◆一方、カトリック教会や英国国教会等の影響が強い地域では1月6日は「主の公現」を祝う祭日として覚えられていて、クリスマス期間(教会暦で降誕節12/24~1/6)の終了とも認識されています。「公現」とか「顕現」と訳された聞きなれない言葉はἐπιφάνεια、エピファネイアというギリシャ語から来ていて「礼拝者へ神様が現れる」という時に使われる言葉。東方の博士達が礼拝しに訪れた事を記念する日として覚えられています。

◆約束された母国での学者としての地位を捨て、人生を賭けて礼拝者としての旅に踏み出していった博士達。当時の旅の厳しさを考えれば、命の保証もなく財産の大半を費やしての旅だったと想像される、そんな旅だったのでしょう。礼拝者として踏み出した時、彼らにはイエス様と出会うという本当に嬉しい出来事が与えられました。

◆七草粥を食べて現実へ戻っていくのか、主の公現を信じて礼拝者として踏み出していくのか。主イエス様に出会う方へ一歩踏み出す私でありたいと祈っています。

武林 慧

今週の一面 『どちらを選ぶか』1/7  

Shin1

◆人が生きていく上で,常に『どちらを選ぶか』という行為が付きまといます。何を食べるか,何を飲もうか,何を着ようかといった軽微なものから,人生の岐路に立ってどちらを選ぶべきか大いに悩む事もあります。一日の中でどのくらいどちらにするかを選んだかを一つ一つデーターとして記録したら,何万回にも及ぶ行為をしていることに気付くことでしょう。

◆イエス様は,「何を食べようか,何を飲もうか,何を着ようかと言って思い悩むな。」と言って下さいます。(マタイ6:31)そして「何よりもまず,神の国と神の義を求めなさい。そうすれば,これらのものはみな加えて与えられる。」(6:33)と続けてくれています。

◆何気なく今までやってきた,習慣として選んでいることも多いはずです。例えば,毎日車を運転して走る道,一日の生活の始まりから就寝までのパターンなど。思い悩むことなく選べるのであれば,それはそれで感謝です。主が共にいて下さり,一日無事に過ごせた感謝を祈りとして主に献げましょう。

◆人生の行く先を思い悩んだら。どちらを選んだらよいか迷ったなら。「何よりもまず,神の国と神の義を求めなさい。」の御言葉の通り,イエス様であればどのように思われるかを祈り求めるべきです。そしてその結果として,「これらのものはみな加えて与えられる。」の通りになるのです。  

伊東昌彦

今週の一面 12/31  

Shin1

◆クリスマスを賑やかに祝い、年末年始を過ごすこの時期、様々な宗教の混在する日本では、元旦礼拝や主日礼拝とはいえ、「えっ?クリスマスでもないのに教会に行くの?」との疑問を持たれることも珍しくはありません。

◆つい先日の祈り会で、聖書暗誦についての学びの時があり、聖書の様々な翻訳にも触れました。現在、私達を含め多くの教会や学校で用いられている【新共同訳聖書】は、20世紀後半以降、それまで異なる聖書を用いてきたカトリック教会とプロテスタント諸派が共同して、エキメニズムと呼ばれる教会一致運動の一つの形として、世界各国で聖書の翻訳に取り組んだもので、日本でも新約のみの翻訳である【共同訳】を経て、固有名詞の原音表記主義や意訳との調整・修正を重ね、出来上がったとのことです。さらに現在も新たな進化を目指し、研究が進められており、約1年後には【聖書協会共同訳】の発行が予定されています。

◆世界の各国で同じように聖書翻訳がされてはいても、この【共同訳】聖書が日本の様に多くの教会で実際に用いられている国は、とても稀なのだそうです。宗教について、独特の文化と価値観を持つ日本であるからこそ、味わえる祝福なのかもしれません。

◆十字架上の主イエスは、ご自分を十字架につけ、ののしる者たちのために、主の赦しと救いを祈られました。

◆主によって与えられる新しい年、まだ見ぬ兄弟姉妹の救いと世界の平安を祈るものへとされるため、心を整え、明日を迎えることができますように。

末永美奈子

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