私だけかもしれませんが、気持ち的な部分でアップダウンの波が比較的よくあります。
特別いい、という日はあまりありませんが、悪い、という日がたびたびあります。
何か原因があるわけではないのですが、やたらイライラしてしまい、何もかも嫌になってしまうのです。

もし、自分の周りにそういう人がいたら、どうしますか?
大抵の人は、近付かないようにしますよね。私もそういう時の自分を見つけたら、近付かないと思います。

正直、そういう気分のときは、教会に行きたくないと思います。何もせず、家で寝てたい、と思うのですが、教会に行くと、スッキリするのです。

教会の空気はとても不思議です。森林浴とかに行くと、空気が気持ちいいって感じますよね?例えとして正しいのかわかりませんが、あれと似た感じでしょうか?

聖霊様が働いてくださっていることを心で感じる瞬間ですね。

私と同じような気持ちになる方は、ぜひ教会にお越しいただき、肌で感じてほしいと思います。

by Hiro

礼拝の始まる前、JOY教会では子どもの聖書クラスと同じ時間帯に、大人の聖書クラスもあります。名付けて「お茶の間クラス」。
お茶を飲みながらリラックス。そして聖書を開いて礼拝前に、整えの時間を持ちます。

今日は、本来なら私には関係のないお茶の間クラスに特別に参加させてもらいました。バプテスマを受けた後に受講するクラスです。
多くの恵みをいただきました。

昨年&今年バプテスマを受けられた2人の女性(私の母くらいかしら。。。)と一緒に学びをしましたが、救われたときに与えられた聖書を分かち合ったり、
受けた後と前ではどんな違いがあったかなど、いろいろとお話を聞かせていただきました。お二人とも感動をもう一度思い出しながらお話くださって、私がその恵みを一緒にいただいたひと時となりました。

一方、私はもうバプテスマを受けてから32年。びっっっっくりするくらい時間が経ってしまいましたが、改めて救いの喜びを思い起こし、感謝と感動をいつも持ち続けたいと思わされました。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

ヨハネによる福音書12:24

by りかち

ハレルヤ!

今年の夏は雨量が多く、私の借りている畑のトマトは、破裂する実ばかりの収穫となり、トマトをサラダの飾りにするより、ソースとして原型を誤魔化した具材として調理することがほとんどでした。

ハーブのほとんどは、育てるのにさほど手はかかりません。甘えのない乾いたヨーロッパの土地は、湿った過保護の日本の土と違い、植物そのものが飢え渇きを覚えると、枯れないように養分を蓄えようとして、芳香が強くなったり、枝葉が太く硬くなる傾向にあるようです。
取り巻く環境が満たされすぎると、何故か芯の弱い、香りも控えめな、そんな育ち方をしてしまいます。
自分もそうでしたが、信仰の力もまた多くを持ちすぎることで、弱められてしまう事と似ていることを感じます。

『律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は捧げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより十分の一の捧げ物もないがしろにしてはならないが』
(マタイ23:23)

この中に登場する、薄荷はミント、いのんどはディル、茴香はフェンネルというハーブで、私は特にディルを好んでサーモンマリネなどの調理の香り付けに使います。またハーブを知るようになって、ディルの和名がいのんどだと知りました。
フェンネルには、次のようなエピソードがあります。米国のキリスト教徒が、乾燥させたフェンネルの種子を礼拝中に噛んで空腹を紛らわせたことから、「礼拝の種子」と呼ばれているそうです。
神さまに育てられている私たちの実が、時に雨も取り上げて渇きを覚えても尚、主に結ばれる実になりますように...。

by MxM

夏の間、強烈な日差しを受けて咲いた朝顔や実ったゴーヤたちも種を残す季節を迎えた。

何度種まきしても、発芽させられなかったゴーヤは、今年、種まき名人のKさんから立派な苗をもらって育てた。コロンと太った実が5個なった。朝顔も赤と薄ピンクのグラデーションの花が朝毎に咲いて、介護帰省で疲れた体と心を元気付けてくれた。

以前、老人ホームのメンバーといろんな種を蒔いていた時もなかなかうまく育てられなかったことがある。パンジー、ビオラ、日々草、千日紅、マリゴールド、・・・花壇に植える花々の種を蒔いた。乾かないようにビニルで覆ったり、濡れた新聞紙を被せたり、いろいろ工夫していたが、10鉢のうち2,3鉢しか芽を出してくれなかった。

ところが、ある時、一人の方が、毎日水やりをしましょうと申し出てくださってからというもの、酷暑の夏も発芽率がグンと上がって、10鉢のうち8,9鉢が芽を出し、見事な花苗に育ってくれるようになった。

植物の種蒔き、苗育てを人の育ちに例えることがある。硬い種、小さな種、大きい種、それぞれが芽を出しやすいよう、大きいのは一晩水につけたり、硬すぎる種皮を脱ぎ易いよう傷をつけたり。小さすぎるのは、2,3粒一緒に蒔く。芽が出るまで日々は、辛抱強く見守らなければならない。いったん蒔いたらカラカラに乾かすことのないよう水やりを怠らないなど。しかし、手をかけすぎると逆に芽を出さないこともある。植物のための手間のかけ方は、どこか人の育ちにも通じるのかもしれない。
 
先日、我が家の末っ子が巣立った。親である私たちが娘に持たせたのは弁当箱とうちで使い古した料理本。どうか、体が養われてすこやかに暮らせるようにとの祈りを込めて。
この子との今までを振り返ると、手を出しすぎてうまくいかないこと、逆に祈りながら待っていた時期もあった。そうして、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ3:6)という聖句にいきあたった。

改めて、親がしてやれることは何もない気もする。手も口も出しすぎてはいけない思いになる。幸せを信じてひたすら祈り続けたい。
それにしても、ずっとずっと人間の悔い改めと立ち返りを待ち続けておられる神様の深い思いはいかばかりか。

By おたね

ハレルヤ!

月曜日、思いつくまま車を飛ばし、八ヶ岳を望む蓼科の森の中に向かった。高原はすっかり秋に姿を変え、肺は澄んだ空気で満たされる。森の中にある小さな薬草店が目指す処。
ハーブの勉強をするようになると、その多くが聖書の中に登場することを気付かされる。
これからは、このオリーブの香りの執筆内容を、ハーブと聖書のコラボでお贈りしていきたいと思う。

先日、祈り会の際に、S姉から畑で育てているハーブを分けて貰えないかと尋ねられ、特にセージがあれば、パン作りの材料に入れたいと言われた。
学名Salvia officinalis、シソ科のセージについて、お伝え出来ることを幾つか...。
属名のSalviaは、『救う』『癒す』と言う意味のラテン語『salvere』 に由来します。天使にラブソングをの映画の中でも、シスターたちが歌った曲の歌詞に出てきます。
古代ギリシャ人やローマ人にとって神聖な植物のセージ。
中世のヨーロッパの修道院の庭には、必ず植えてあり、不老長寿の薬草として大切に育てられていました。今日では肉料理の臭み取りとして使われたり、天然素材のデオドラントとして歯磨き粉としても使用されています。

『純金で燭台を作りなさい。燭台は打ち出し作りとし、台座と支柱、萼と節と花弁は一体でなければならない。六本の支柱が左右に出るように作り、一方に三本、他方に三本付ける』出エジプト記25章31~32。

セージの一種S.judaicaは、この旧約聖書に出てくる燭台の起源とされているそうです。パレスチナの山や丘に自生するセージの花穂の形状が、7本の枝に別れた燭台と似ていることからモデルにしたのではと考えられているようで...

礼拝前、朝一番で畑に行って摘み取れるといいな。
そろそろ夜も更けて来ました。
眠りに就く前に、一杯のハーブティーと、秋の収穫の感謝のお祈り...おやすみなさい。

by MxM

先日、ちょっとイライラしている時がありました。
ちょうどその時、息子が家にいて、たいしたことでもないのに息子に声を荒げて
怒ってしまいました。しかも、1度だけではなく。。。

その後、私は自分で自己嫌悪に陥り。。。
これではだめだと息子に謝りました。

「お母さん、本当は嫌なことがあって、イライラしていたの。
だから、叱ってばかりいたお母さんは良くなかった。ごめんね。」
息子は、ただ「うん」とだけ言って、部屋にいきました。

勇気のいることでしたが、やはり謝ることが必要だと思ったので、そのようにして
よかった、と思いました。

その後、日曜日のメッセージをふと思い出しました。
人は、大きくなろうとばかりするが、小さくなることこそ、神の国の平安を得る
ための秘訣。声を荒げて自分が大きくなろうとしていましたが、そうではなく、
しっかり自分の小ささを認めることの大切さを学びました。

謝った後、その前とは違って平安が与えられたのは、言うまでもありません。。。

by りかち。

~オリーブの香り~ No 264  

Shin1

「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」(新改訳:レビ記19:32)

九州出身の同級生や同窓生が集まると、必ず話題になるのが、自身の健康と親の介護、それも九州の郷里で離れて暮らす親の介護のこと。また仕事柄、いろんなケースを見聞きし、相談が舞い込むこともある。

首都圏に暮らす60代の女性Aさん。84歳になる母は、九州の郷里で弟の一家と同居している。母は認知症。
その母が転倒から骨折し、入院。2カ月近くたつと認知症の症状が進んだのか、「早く家に帰せ」と病院の中で杖を振り回して暴れているらしい。弟はその対応で疲れ果て、自身も病いがあることもあって、退院しても母と今まで通り家で暮らすことは無理なのではと施設に入れたいと考えている。
とりあえず、九州の病院に駆けつけ、母を見舞うと自分の娘と認識できず、口をへの字に結び、ぼーっとしてテレビを見ている姿があった。ところが、リハビリ担当のTさんが通りかかると、笑顔で手をふるではないか。
その時、<Tさんは、母と接する時はいつでも、必ず床にしゃがんで、目を合わせ、笑顔でゆっくりと話すこと>を思い出し、「はっ!」と気づいたことがあると、Aさんは言う。

認知症の人は、わからないのではなくて、人一倍、人の気持ちの動きや感情、そしてやさしさや怒りに敏感なのではないかと。
また、「母が認知症になった!」「私のことを娘と分からなくなった!」「困ったものだ!」というけれど、「認知症になった」という状況の前で、そのことを受け入れられず、混乱して、困っているのは実は自分なのだと。

84歳の母は、敗戦の年に12歳。普通だったら10代の光輝いているはずのときに、敗戦後の混乱の中で、生きていくだけで精いっぱいだった。食べることに必死だった。結婚して子どもが生まれ、日本が復興していくのと合わせるように、必死に働き、子どもを育て、無我夢中で生活してきた。それはそれは、悩み、苦しむことも沢山あっただろう。
今こうして、いろんなものを忘れたり、わからなくなっても、或いは周りからは自分の世界だけに入りこんでいるように見えても、本当に必要なものだけを見つめて、他人にとっては迷惑でも本人にとって不要なものを捨てて、何が悪いのか! ゆっくりと自分とむきあっているのかもしれない、神様とお話ししているのかもしれないではないか。
改めるべきは、自分なのだと。

聖書は、人の最初から最後までを心から大切にされている神の姿と言葉を伝えている。
「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(新改訳:イザヤ書46:3-4)

By 父ちゃん

先日、娘も連れてカラオケに行きました。
いままでも何回か連れて行ったことはあるのですが、
今回は初めて娘も自分で歌を歌いたいと言い、
みんなで楽しく過ごしました。

娘は小さい時から歌が好きで、教会の賛美歌の歌詞もいくつか覚えています。
カラオケでは賛美歌は歌いませんでしたが、ふと彼女が歌っているのを聞いた時に、
祈ることができなかったとしても、賛美をすることでも
十分神様に届くのだろうな、と感じました。

歌にはとても不思議な力がありますよね。
気持ちをうまく言葉では伝えれらないから、歌にした、なんてことをドラマなどでよく聞きますが、
実際に歌にはそれだけの力がありますし、ストレス発散になったりもします。

疲れてしまっていて祈れない時に、代わりに自分の好きな賛美歌をめいいっぱい歌う、
そんなこともたまにはいいのかもしれません。
私もまだ自分の好きな賛美歌もパッとは浮かびませんし、
アカペラで歌うなどまずできませんが、一曲でもそういう歌を見つけて、
祈れない時に賛美できるようになりたいなと思わされました。

あたなにはそのような賛美歌はありますか?

by Hiro

ハレルヤ!

NHKのニュースでは、台風5号が四国にまもなく上陸と伝えている。
そして今、私は室戸岬のホテルの部屋から、狂った空と荒れた太平洋の海を数十メートル先に見ている。

7月が怒涛に過ぎていったことが、頭の中を巡る...伝道チームがテキサスから見え、日本のゴスペル音楽のパイオニア的存在のディレクターにレッスンを受け、さらにNYからもゴスペルディレクターが来て、多くの人にワークショップを施してくれた。

彼らは、パワーがある。神さまにチャージされたエネルギーは、海の向こうからやって来て、そのことをまだ知らない人達に、温かく優しくフレンドリーに、主の愛について語りかけ、そして深い祈りを与えてくれる。
ある人は、静かに受け止め、ある人は、戸惑う。ある人は勇気を貰ったと言い、ある人は、知らなかった時より、ずっと知りたくなったと言う。

また、新しいニュースが入った。台風は、やはり上陸したと...瞬間、風がピタリと止み、分厚い雲の断層の隙間に、わずかな光が透けて見えた。
台風の目の中に入ったのだ。
どこに隠れていたのだろう...羽を休めていた赤とんぼが数百匹と言う単位で一斉に飛び出して来た。一匹ずつ十字架を背負って飛び回っているように見えた。
激しい嵐のど真ん中に十字架が在る。嵐は激しいと見えても、中心は実に静寂なのだ。嵐の中でも主はいらっしゃる。
昼には空模様も回復するでしょう。
赤とんぼのように、帰路に着く飛行機が飛び立ちますように...。

by MxM

時折、港から船の汽笛が聞こえる高台の小学校。放課後になるとキッズクラブの部屋は帰って来る子どもたちで満杯になる。
「外遊びの時間だよ」の声で一斉に駆けだして校庭へ。日本、中国、フィリピン、アメリカ、スリランカ・・・いろんな国で育った親を持つ小学生たちが、広々とした校庭を子犬のようにじゃれ合いながら駆けまわる。入学したばかりの子と上級生がまぜこぜで「ドロ警」と呼ぶ鬼ごっこに興じる。
支援員として通い出して12年、ここの子どもたちの姿に惹かれ続けている。
このところ室内で目立つ将棋盤に向かう姿、クリーニング屋のおじいちゃんが開いた将棋教室に通う中国の子どもが先生役で、駒の並べ方から丁寧に教えている。
「ひふみん」の愛称をもつ老将棋名人が、後輩の活躍を喜ぶコメントがニュースで流れた折、「ひふみんこと加藤一二三さんは敬虔なクリスチャンで、何かあると一日中礼拝堂にこもって祈っていたんだって」と語る人がいた。放課後に集まる子どもたちの中には、祭壇に供えた食べ物だけを口にし、動物の脂は絶対食べない子もいる。それぞれの家庭で大事にしている信仰のこと、母国のことをはっきりと伝える子も多い。

「多文化共生」、確かに大変である。このキッズクラブでももちろんもめ事はある。
しかし、真昼のキッズルームで両足にハンディを抱えている男の子と普段は頑固でとっつきにくい男の子が、一緒になってマンガ描きに熱中している。生まれつきの足のハンディのため、何かあってはいけないと、大人のスタッフとの関わりを中心に過ごしていたこの子を仲間として迎える子どもが現れる。

改めて、神様はこのように人を創造されたのだと教えられる。愚かな大人は、この子ども達の姿をみて、己を振り返らねばならぬ。

「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」
(マタイによる福音書18章3-4節)

By おたね

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