私は子どものころから「死」についてとても恐怖を感じていました。
小学生のころから「自分は死んだらどうなってしまうのか?」と考えることがしばしばありました。
自分の体はいつかこの世の中からなくなってしまう。そのとき、自分の意識はどうなってしまうのか、いま考えているこの思考はどこへ行ってしまうのだろうか、まったく無となって意識もなくなってしまうのだろうか。
考えれば考えるほど不安になり、恐怖に押しつぶされそうになることがありました。
そんなときは、「死」については考えないで、蓋をして、別のことを考えてただただ逃げるようにしていました。
しかし、ふとしたときに「死」への恐怖が蘇ってくる、また逃げるを繰り返していました。

先日テレビで、小学生の悩みについてのアンケートを番組で紹介していました。
いまの小学生はどのようなことに悩みをいだいているのか興味深く見ました。

アンケートの結果のベスト3は以下の通り:
1、なぜ勉強しなければいけないのか?
2、友達ができない
3、死んだあとはどうなるのか?

「死」について友だちと話したこともなかったので、「死」を考える自分は、人とは随分変わった子どもだったのかなと思っていたのですが、現代の多くの小学生も「死」について考え、悩みを抱えているというアンケート結果は驚きでした。

自分でいくら考えても「死」への答えは出てきませんでした。しかし、聖書には、「肉体の『死』は決して終わりではなく、永遠の命への道が用意されている」ことが書かれており、私はこのことに希望と安らぎを与えられました。
聖書を読むとき、何とかして私たちを「死」から「永遠の命」への導こうとする神様の愛を感じることができます。神様から私たちに向けたラブレター、一生かけて読み続けていきたいと思います。

「わたしの父のみこころは、子(イエスキリスト)を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終わりの日によみがえらせるであろう。」 ヨハネによる福音書6:40

by しん1

我が家には今、思春期(反抗期)と更年期...ダブルでデリケートなお年頃がそろっています。
いつもならなんでもないような些細な出来事でぶつかり、イライラし、そこにホルモンのいたずらで油が注がれヒートアップ...
聖書に「日が暮れるまで怒っていてはならない」と書かれていたと記憶しているのですが、日が暮れても、日が明けても収まらない日がしばしば...。

そんなとき「ただシンプルに編むだけで心まできれいな模様で満たされる」という毛糸に出会いました。
それは、ドイツ生まれの「Opal」という毛糸で、梅村マルティナさんが日本に初めて紹介し東北支援にも取り組まれています。

編むだけできれいな模様が出来るように糸が染められているので、次はどんな模様になるのかなとドキドキ、ワクワクします。
編み進めて行くうちにイライラしていた心がドキドキに変わるのです。
主婦のお小遣いで買うには少し高いかもしれませんが、私は自分へのクリスマスプレゼントに3年前はじめて購入しました。

今年は特にハイスピードで手仕事が進み...
イライラは自分に、ワクワクしながら作った作品はJOYバザーに出品させていただきました。

P1000247.JPG
<ハンドウォーマー>

誰がどの色の作品を手にして下さるのか考えながら編むのもとても楽しく、癒されていく時でした。

どんな小さな働きでも用いて下さる神様の恵みに感謝しつつ、ホルモンのいたずらとの戦いはまだまだ続きます。

byゆかりん

昨年の大晦日 故郷に戻って 二人の母と過ごした。昼間 弟の運転で母の生まれた村にある肉屋へ正月用の買い出しに行った。記憶も意欲も薄れてきた母との外出は久々。
車窓の景色に見入っているとカーラジオから賛美歌が流れてきた。「アメイジング・グレイス」。解説する人が「グレイス」とは、と語り始めた。母と姉がクリスチャンというこの人は「グレイス」を「恩寵」と訳した。「音調」じゃありませんよと念を押しながら。昨年のクリスマスイブでは「恩寵」を「驚くばかりの恵み」と歌った。
教会に通い始めた頃、この曲の作者ジョン・ニュートンが奴隷船の船長だった過去を持つと知った。大嵐の中、奇跡的に命が助けられた時、神様の恵みの大きさに目が開かれ、奴隷廃止運動のために働くものに変えられたという。そうと知って歌詞を読み返すと一言ひとことが迫ってくるように感じられる。

驚くばかりの  恵みなりき
この身の汚れを  知れる我に

恵みは我が身の  恐れを消し
任(まか)する心を  起こさせたり

危険をも罠(わな)をも  避(さ)け得(え)たるは
恵みの御業と  言う他なし

 夜、姑を訪ねた。うちの娘家族も来ていて久しぶりに孫とも会えた。「クリスマスの劇でね、天使になったとよ。ガブリエルっていうと。」と手を上げてセリフを言ってみせる。えっ、ガブリエル!? 55年前、お菓子欲しさに通った教会で一度だけ出た劇、私も天使ガブリエルだった。故郷に立つ同じ教会の、同じステージで! 驚くばかりの「恵み」が、こんなところにも。 
 いくつになってもバタバタと落ち着かず自分中心で人目ばかりが気になる私を神様は教会に招いてくださり、祈ることを教えられた。聖書を通して本当の愛に触れさせてくださった。
 「あなたがたは恵みにより・・・・・ 救われました。
  このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です。
  行いによるのではありません。」(エフェソの信徒への手紙2:8~9)   

by おたね 

教会の礼拝、と聞いて、どういう光景が思い浮かびますか?

私が初めて、教会の礼拝に参加したのは、およそニ年半前ですが、
当時の私の礼拝イメージは、パイプオルガンが鳴り、牧師がメッセージをする、
静かにしていなければならない厳粛な場所、というイメージでした。
当時、まだ生後半年の娘を連れて行っていいものだろうか、など色々と考えていた気がします。

ところが、実際に行ってみると、イメージとは真逆に近い教会でした。

賛美の奏楽は、ギターやドラムなど、教会にあるはずもないようなもので行われ、
礼拝出席者みんなでパワフルに賛美し、礼拝中に、出席者同士で握手をする時間もあったのです。

最初は戸惑いしかありませんでしたが、それでも通い続けていくうちに、
その礼拝スタイルに惹かれていく自分がいました。
神様の御言葉に触れ、出席者みんなで分かち合い、お互いに励まし合う空気に触れることで、一週間の生活で疲れきった心に活力が与えられ、また一週間頑張ろう、と思えるようになっていました。
そのような体験をしていく中で、洗礼(パプテスマ)を意識し始め、教会に通い始めてから半年後、妻と一緒にクリスチャンになりました。

心に活力を与えてくれる教会へ導いてくれた妻と、妻を通して私を教会へ、
クリスチャンへと導いてくださった神様に心から感謝しています。

by Hiro

~オリーブの香り~ No 236『2017DIY』  

Shin1

ハレルヤ!

1/9は成人の日...そして、我が家も今年は築20年を迎えました。
神様が造られた人間は、健やかな成長を見て取れますが、建造物は汚れて朽ちて行くばかり。業者を頼まず、出来る限り自分達で手直ししてみようと奮起して、新しい年のスタートは、DIYな毎日となりました。

キッチン、ダイニング、椅子の張替え、カーテンを縫い上げ、リビング、トイレ、洗面所、寝室、和室は洋間に変更と、およそ一年をかけて修理修繕蘇りのプラン実行で、家族5人が積み重ねた暮らしの中の想い出のシミや汚れの一掃です。

壁紙やタイル、ペンキの色など、全体のバランスを考慮して資材を選ぶのは楽しい作業ですが、壁紙は、張り替える前の剥がす作業が、予想以上に体力を消耗します。
運動不足の身体には堪えるほど、両腕を肩より上に上げる動作が多く、これまた使い古した肉体の酷使で...

17年飼っていた犬が嚙って傷つけた柱や、思春期にふてくされた息子の作ったへこんだ壁の穴も、全部直して新しく。
過ぎてしまえば微笑みが浮かぶけれど、当時はダメージに降参したな。

そういえば...大和にある教会の看板に書いたてあった『人生の傷、へこみなおします!』
寸法を測り直したり、破れを繕ったり、デコボコを平らに均したり、煤けたカビを退治したり、私の中にある補修と新品交換も、神さまと向き合い出してから、どうして行けばいいのかを、いつも主がタイミングや方法にヒントを与えてくれていたのだと思う。

それにしてもトイレの床と壁の張替えは難航。トイレの神さまじゃないけれど、毎日使うところを、気持ち良く模様替え出来ますように...日々、主に向かう新しい私になれますように、と同じかしら?

by MxM

とても権力があり自分の人生にも影響を及ぼす人が、もし"弱いけど正しい行いをした人" を非難し、「みんなも俺が正しいと思うだろ」と言ったとします。そんな時「はい、そうですね。」と言ってしまうでしょうか?それとも「いや、私はそうは思いません。」とその人をかばえるでしょうか?
「はい、そうですね。」と言っておけば、ひとまず安泰です。でも心はモヤモヤしますよね。その逆だとどうでしょう?会社だったらそれを続けていたら、ひどい場合は降格させられることだってあるかもしれません。でも神様は「よく言ったね。正しいほうを選んだね。」と褒めてくれるでしょう。
私は権力者に「はい、そうですね。」と言ってしまう自分が嫌で、すごくモヤモヤして、"人からどう思われるか"ばかり気にしてずっと生きていくのはやめようと思い、クリスチャンになりました。私を創造して下さり、私の罪の身代わりになってくださった "神様の基準"で人生を歩みたいと思ったからです。
教会ではその方法を教えくれるし、ともに分かち合う友もいます。もっと一緒に分かち合う友が教会にあふれればいいのになあと思います。ぜひ、一度教会にお越しください!

byとと

ふと、思ったことがある。
遠くベツレヘムまで旅をしたあげく、馬小屋にしか泊まれなかった。そんな中で幼子イエスが誕生したとき、父親のヨセフはどんな気持ちだったのだろう。

身重のマリアを気遣い、かばいながらの長い旅と激しい疲れ。聖霊によって身籠った、つまりは自分の子どもではないおなかの子ども、激しい葛藤はなかったか。
貧しくてちゃんとした宿屋が取れない自分のふがいなさ、理不尽な命令をする王皇帝への行き場のない憤り、妻マリアへの申しわけない気持ち。きっと胸が張り裂けそうな悲しみとやるせなさがあったことだろう。

その悲しみをいやしたのは、生まれたばかりの、一見何の力もない赤ん坊。ヨセフは貧しくて何ももたないその手で幼子イエスを抱いたから、ぬくもりを感じ、それが生きる希望になった。博士たちは、自分の財産を全部処分して作った宝物を捧げた。その何も持たない手でイエスに触れたから、喜びが大きくひろがった。虐げられ、何ももたない羊飼いもまた同様である。幼子イエスに触れることで救い主誕生の喜びを与えられたのである。

神様が愛するひとり子をこの世に賜った、その愛の暖かさとぬくもりはこのようである。クリスマスは、神様の愛という暖かさとぬくもりに触れ、お互いに喜びを分かち合う時でありたいと願う。

だから、手に持っているいろんなものを捨て去り、或いはみんなで分かち合い、すべてを捨て去ることが難しくとも、まず何より、手を伸ばし、ひたすら神の愛を求め、直接触れたい。そしてその手で多くの人と喜びと暖かさを分かち合いたい。

私こと「とうちゃん」にとっては、本当に多くのぬくもりと暖かさを与えられた一年だった。様々な心配事で精神や体が変になりそうになった時、えーっと思う病気になったとき、確かに、ただひたすらに神様の手に触れ、励まされたいと願った。神様は、友人たちの祈りという形で、様々な人々の暖かい態度や言葉で、良い医者や病院との出会いで、そして妻の手の暖かさで、私にお応えになった。奇跡のような一年。

さあ、「とうちゃん」よ、神様はあなたの暖かい手の働きを必要とされておられる。
多くの人々とともに、メリークリスマス!

by とうちゃん

横浜に結婚と同時に引っ越して来て、24年が経ちました。
こちらで初めてできた友人に去年大きな病気が見つかりました。
幸い早期発見でしたので、術後の経過は順調でしたが、子育てのストレスのせいで、命を落とすかもと先生に言われたそうです。

その彼女に「1人ではくじけそうだから、一緒にダイエットしよう!」と誘われました。
彼女が取り組んだのは、食事による体質改善。
体の中から美しくなる方法でした。

スナック菓子や、ケーキのかわりにナッツやドライフルーツを食べ、食事は自然の恵みそのままに近い状態でいただく(玄米などの精製されていないもの)とシンプルなものでした。
健康食品には手を出さず、びわの葉でお茶を作ったり、カリンでシロップを作ったりと安上がり。私も良いところだけまねをしました。

結果、彼女は人生初のMサイズになり、私は初めの1ヶ月で-3Kg、その後、手抜きでプラマイゼロ...
ダイエットは失敗したけれど、今感じているのは、食後にあまり眠くならない事、肌の調子が良い事、風邪をひく回数が減った事。

私の体も、食べ物も全て神様が作られたもの。
神様の恵みに改めて感謝します。

先日、我が家の自然の恵み、シークワーサーを収穫しました。
血糖値の安定、血圧のコントロール、ニキビ、老化、風邪予防、ガン抑制、リラックス効果等々...
小さいながらも優れものです。
皮ごと切って、三温糖につけてゆず茶風に。部屋中に爽やかな香りがひろがり、心も体も温まりますよ。

「地には草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て良しとされた。」(創世記1:12)

byゆかりん

■11/26(土)-27(日)に日立教会に訪問してきました。
11/26は、日立駅から快晴の日立の海を眺め、その後日立教会へ。
祈り会、しもべ会(役員会)に同席させていただき、その後夕べの会食。
11/27は主日礼拝に参加。JOYチャペルから一緒に行ったS兄はメッセージ、私は証しと賛美の奉仕をさせていただきました。(ギターの弾き語りの賛美は何年ぶりか覚えてないぐらい久しぶりで緊張でした。(^_^;) )
本当は石田牧師の働きにただ一緒に同行させていただくだけの予定でしたが、石田牧師が怪我のため、急遽奉仕が回ってきました。。日立教会の皆さんは、期待していた石田牧師が行けなかったので残念な気持ちだったと思いますが、S兄と私だけの訪問をとても喜んでくださり、それはそれは大変な歓待を受けました。 聖書にある「旅人をもてなす」精神が皆さんから溢れでていて、本当に嬉しい気持ちでいっぱいになりました。

■ 今回の日立教会訪問で改めて学ばされたことは、お互いのために祈る大切さ。お互いのために祈るためには、自分の今ある状況をさらけ出す必要があります。自分の恥をさらすようなことであっても、それを伝えなければ本当に自分の必要のために祈ってもらうことはできない。相手のために祈るには、その方がどんな課題を抱えているか知らなければ祈ることはできない。日立教会の方々は、自分の弱さをさらけ出し、祈る課題を分かち合い、互いに祈っておられるのだなあということがよくわかりました。そのような中で、私自身と、そしてJOYチャペルのためにも祈ってほしいと、いつも以上に自分の思っていることをさらけ出す自分がいました。

■ 昨年から始まった石田牧師の月一回の日立教会奉仕をきっかけに、日立教会とJOYチャペルの交わりが始まりました。片道3-4時間と決して近い距離ではない2つの教会の兄弟姉妹が共に神様にあって歩むことを喜び、お互いのために祈れる間柄であることが本当に感謝なことであると感じることができた今回の訪問でした。

■ 訪問中、会話の中で教会にお誘いしたい方々の話がよく出てきました。自分を救ってくださったイエス様、自分に愛を示してくださったイエス様を周りの方々に紹介することがとても自然なことであり、そのことをとても大切にしていることがみなさんの会話から伺うことができました。

■ イエスキリストがこの世にお生まれなさったことを覚えるクリスマスシーズンの今、日立でも、横浜でも、日本でも、全世界でも、一人でも多くの方々が、神のひとり子、イエスキリストがこの世に生まれた本当の意味を知り、イエス様の恵みに預かることができるように切に祈ります。

by しん1

~オリーブの香り~ No 231 『感謝』  

Shin1

11/22「いい夫婦の日」、11/23「私たちの38回目の婚約記念日」、11/26「次女の31回目の誕生日」と「家族」のことや「生きること」、あるいは「出会い」ということを思う日々が続く。

振り返ると多くのことがあった。熊本の震災と復興支援への取り組みに参画したこと、阿蘇で働く娘を支えること、そんなこんなで一時期心身のバランスを壊したこと。夏に思いもかけず入院し、手術をしたこと。その後継続的な治療があったこと。そのおかげでいつにも増して、妻と一緒にいることが多かったこと。

自分自身や妻についても、娘に対しても、今年ほど、多くの人の支えが嬉しいと思ったことはない。娘の働く黒川温泉を訪ねてくれた人、メールや電話で、或いは手紙で励ましてくれた人、熊本の物産品を一生懸命買ってくれた人、私たちを気遣って食事に誘ってくれた人等々、「嬉しくて、嬉しくて、言葉にできない」気持ちを皆さんに改めて届けたい。

そんな中、大きく実感したことがある。「祈りによって支えられる」ということ。「祈っています」というその一言でどれほど助けられたことか、「一緒に祈ること」が実際の力になるのだということを本当に体で感じることができた。

いつの時でも、どこでも神の御手の働きがあり、私は励まされ、守られていた。いつも何かあると、「うろたえ」、「おののく」私への励ましの言葉は、このようだった。

「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア記1章9節)

「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなくその英知は究めがたい。 疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書 40章28節~31節)

いよいよアドベント、クリスマスが近づいてくる。世界中が喜びにあふれ、人々の心が少しでも豊かになれるように。私もまた、多くの人たちのために祈りを捧げる。誰かを支えつつ、誰かに支えられながら歩むものでありたい。

by とうちゃん

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