私はクリスチャンになる前、教会の皆さんが聖書の言葉のいくつかは暗記していることにビックリしました。
「◯ ◯ の福音書にもこう書いてあるよ。他にも・・・」という具合に。
そしてこうも思いました。「僕はこの先クリスチャンになったとしても、残念ながらこのレベルにまでは達しないかな・・・」
しかし、クリスチャンになり13年、教会で礼拝のメッセージを聞き続けているうちに、こんな気持ちに変わっていきました。「この言葉、前も聞いた。毎日の生活の中でモヤモヤした気持ちになる時に、いつでも思い出せればいいのに!」
というわけで、これは覚えたぞという3つの言葉を紹介します。

1.「冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい。」
   洗礼を受けるかどうか迷っていた時に覚え、その後生活の様々な場面で中途半端な
   気持ちでいる時にこの言葉を思い出します。
2.「神様のなさることは、すべて時にかなって美しい。」
   どうして今、僕はこんな目に遭っているのか意味が分からん!と感じる時に思い出
   します。
3.「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」
   なんかいい事ないなぁ、一体神様は僕がどんな気持ちで1日1日を過ごすことを望
   んでいるんだろうと考える時に思い出します。

聖句暗記、おすすめです。神様に聖書に感謝です!

byとと

ハレルヤ!

この夏、音楽と山を楽しむ祈りの旅に出かた。
長野は軽井沢〜松本〜上高地と移動しながら、外国人宣教師が拓いた、種蒔かれた地を歩いてみた。

素朴な木の教会から、石造りのモダンな礼拝堂を持つ教会まで、様々な佇まいにやさしい光が注がれ、静寂な時に包まれるひと時。

ある教会からは、ブルーグラスの調べが流れて来て、足を止めて礼拝堂に入ると、バンジョー、ギター、マンドリン、ウッドベースを奏でる4人の外国人が、こんな賛美を歌っていました。

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小さな教会、と言うタイトルの曲に熱くなった...。

ガラ〜んとした礼拝堂に、歌に誘われて教会に足を踏み入れた観光客が、少しずつ席を埋めて行く。

宿泊するホテルに隣接された教会でも、夜にゴスペルの練習をしていて、毎年この夏の時期にコンサートが開催されている。

私にとっての観光パワースポット...どうやら、どこに出向いても、十字架とやさしい光と神を賛美する音楽に引き寄せられてしまうようだ。
by MxM

クリスチャンになり、教会に集うと、よく「○○兄弟」と呼ばれることがあります。キリスト教初代教会のころから、クリスチャンになるとお互いを兄弟、姉妹と呼ぶようになったようです。

私は一人っ子なので、子どものころから兄弟姉妹がいる友だちを羨ましく思うことがありました。

学生時代に3ヶ月ホームステイでお世話になったクリスチャンファミリーに小学生、中学生の女の子2人がいました。いつも「おにいちゃん、おにいちゃん」と呼んで親しく接してくれる妹たち。「おにいちゃん」と呼ばれることに慣れていない私には、照れくさく、恥ずかしい気持ちもありましたが、とても優しく、暖かい気持ちになりました。

アメリカ留学中、クリスチャンになり、たまたま訪れた教会で、Hi Brother (こんにちは、兄弟)と初めて出会った人に呼びかけられることがありました。つながりはお互いにクリスチャンであるということだけ。初対面にも関わらず、「よう、兄弟!」と呼ばれることは、一人っ子の私にとって非常に嬉しい響きがあります。

留学中、1週間のクリスチャン修養会に参加したことがあります。その中にとてもとても仲の良い2人の姉妹がいました。そのように仲の良い兄弟姉妹を見たことがなかった私には大きなカルチャーチョックでした。信頼で結ばれた仲の良い姉妹って本当にいいなぁと。その姉妹のうちの1人が、のちに私の妻となりましたw。

聖書の中には、パウロが書き送った沢山の手紙が収められています。その手紙は、パウロが信仰に導いた多くの教会や人々、パウロを助け同じように伝道で苦労している同労の友、様々な問題に直面する教会に向けて綴られています。そのパウロが送った手紙の中には、「兄弟たち、」という呼びかけを多く見ることができます。
実際に会うことが難しく、今のように便利な電話などの通信環境が全くない状況の中、
心からの感謝や、励まし、心配、ときには戒めのことばを、自分の愛してやまない兄弟姉妹に向けて手紙で書き送りました。どんなにかその「兄弟姉妹たち」のことを真剣に考え、愛しているかが、その手紙から伝わってきます。

私も、愛する兄弟姉妹に対して、常に尊敬の念を持ち、感謝を表し、励ましと慰めを与えられる者でありたいと願います。

「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 」

ローマの信徒への手紙/ 12章 10節

by しん1

私が礼拝に出席するようになった大きなきっかけは、家庭集会でした。
その家庭集会に参加するようになった理由は、当時キリスト教保育の幼稚園に通っていた息子の言うイエス様を詳しく知りたいと思っていたこと、母となり祈らされることが増えたけれど、私は誰に向かって祈っているのか?と疑問に思っていたことでした。

「息子が頭を打ってケガをしました。後遺症が残らないようにして下さい。」
「高熱を出して苦しんでいます、助けて下さい。」等...
私の祈りは誰に向けての祈りなんだろう?
もしかしてどの神様にも届いていないかもしれない...だったら、私の神様が欲しい。
と、思っていた頃、ママ友のSさんが、
「私の家で、聖書の勉強会しない?」
と、声を掛けてくれたのでした。

毎月1回開かれる家庭集会に参加させて頂きましたが、なかなかイエス様を信じることが出来ませんでした。
不信、失望、孤独感などで黒くカチカチに固まったハートの私には、目に見えないものを信じることが困難でした。
たくさんの方々の期待に応えられない苦しさからいつしか
「神様がもしいらっしゃるなら、私にイエス様を信じさせて下さい。」と、毎日祈るようになっていました。

そんな私に待ち望んでいた瞬間は突然にやって来ました。
たとえていうなら、恋に落ちた時のような感覚...。
理屈抜きにハートが灰色から輝くピンク色に変えられました。

冴えない私の中に輝く何かを与えられたことに感動し、幸せな気持ちになったこと、この気持ちを家族と分かち合いたいと思ったこと、Sさんが自分のことのように喜んでくれたこと...
今でもハッキリと覚えています。

あなたのハートは輝いていますか?
あなたが輝きに気付きますように...。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたくしはあなたを愛している。」

イザヤ.43:4

byゆかりん

この頃、肩が痛い、首筋が痛い。膝が動かないこともあれば、大腸が動かないこともある。せめて同時に痛いのは1か所にしてよね等々、自分の体に文句を言う私に与えられる言葉がある。若いころ、私はスポーツマンだった。校内のスポーツ大会ではいつもスターだったと自慢する、「よくある」高齢者になっていく私。また時々高慢ちきになって、妻をはじめいろんな人に迷惑をかけている私を諭す詩がある。
ニューヨークリハビリテーション病院の壁に掲示されている詩。

「苦難にある者たちの告白」-ある患者の詩-

大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるように健康を求めたのに
よりよきことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるように命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。

日々反省しつつ、祈りながら歩みたい。
byとうちゃん

~オリーブの香り~ No 215 『還る』  

Shin1

火曜の夕方、フルート奏者の方々が控え室に戻り、車椅子で点滴をぶら下げた患者さん達を病室に送り終えた後、中庭の緑の木々を眺めながら食堂の椅子を片付けていた。ふと...30年前の出来事を思い出す。

あの時は、父の傍らで聴いていた。
病と向き合う人々に、音楽という癒しのギフトが、生きるエネルギーに変わる時間。

20年前の出来事も思い出す。
激しい腹痛に見舞われ、救急車で運ばれたまま、数週間入院していた事を...。
スタスタと歩けるようになって、ロビーで奏でられるクラシック曲に、耳を傾けてやさしい身体に戻っていくことを実感したあの日。

10年前も同じ...この時は、自分が声を放ち歌った。
ガラス越しに聞いてくれたパジャマ着の幼い子供たちに、涙が溢れた。

父と一緒に聞き、自分ひとりでも聴き、奏でもして、今は病院内での音楽環境を整える側に立つ...。

20年以上続いている、カトリック教会のクリスチャンを中心に構成された、ボランティアの会に参加している。プロテスタント信者も、信仰を持たない者も共に奉仕に従事している。
ここでの世界は多様性に富んではいるが、それぞれの場所から、痛みや苦しみという共通項を抱え、回復を祈り、還る処を悟る時を与えられる。

その、ほんのひと時の中に、神の音楽が在る。

~主よ私をお使いください~
主よ、今日一日
貧しい人や病んでいる人を助けるために
私の手をお望みでしたら
今日、私のこの手をお使いください

マザーテレサの祈りより...

人はみな、主の元に還るのだ。
...還れるのだ。

ハレルヤ!

by MxM

私がクリスチャンになりたての、まだ二十歳前後だったころ(随分昔ですが。。)、とても好きなクリスチャンミュージシャンがいました。ニューライフというバンドのリーダー、井沢豊さんです。「注がれた愛」や、「主に歌おう」、「喜び・祈り・感謝」など今も歌い継がれている日本のプレイズの原点ともいえる方です。あまりにも好きすぎて、どうしても会いたくて、留学の合間の一時帰国の際には、彼が奉仕する座間カルバリーチャペルの礼拝に出席し、お会いすることができました。私が将来、日本のキリスト教界で、音楽を通して神様のために働きたいという話をすると、自宅に招いてくださり、お昼をご馳走くださいました。いろいろな話をし、自宅の音楽スタジオも見せていただきました。30年も前のことですが、その時のことを今でも鮮明に覚えています。

十数年前、当時大和カルバリチャペルの副牧師だった井沢豊先生は、交通事故で天に召されました。ぜひまたお会いしたいと思いながらも、留学時代以降会えませんでした。しかし、いつの日かまた天国で再会することを楽しみにしています。
実は、私が1年ほど前に作詞作曲した「いつも喜び」という賛美は、井沢さんが作られた「喜び・祈り・感謝」と同じ聖書箇所(テサロニケの信徒への手紙I 5章16~18節)から作りたいという思いから作成したものです。
『いつも喜び』
 「主よ感謝します、今日も守られて
  主よ感謝します、今日も愛されて
    いつも喜び、絶えず祈り、
    すべてのことを感謝しよう
  主よ感謝します、今日も愛されて
  主よ感謝します、明日も導かれる 

井沢さんの作られた曲に「わが子よ...」から始まる歌があります。

 「わが子よ、いま人生を歩み始める君に、
  教えることは数えきれないほどある。
  物事の良し悪し、人を思いやる心、
  どんな人生の波も乗り越えてくる勇気と、
  人を愛し愛されること、弱い人の助けになること、そして
  絶えることのない微笑み
 
  でも一番知ってほしいこと、それは十字架の贖い
  神はひとり子をこの世に与え、十字架の愛は罪許すため、
  主よ、わが子を捉えて離さず、永遠の命を与えたまえ。」

子どもが生まれたときに作られたと聞いていますが、彼の、自分の子に対する思いがとてもよく表されています。私に子どもが与えられたときにもこの歌詞がよく心に浮かんできました。また、子どものことでどうしたらよいか悩むとき、この歌が自然に浮かんできます。この歌は、私の家族に残したい思いを代弁しているものであり、私の祈りです。

by しん1

Sちゃん 6歳の誕生日おめでとう。

あなたは遠く離れた九州で生活しているけど、あなたのことを思うといつも幸せになります。だからあなたの誕生日には、元気でいること、命を与えられていることを素直に喜びます。

ところで、私を「じーじ」にしたのは、実はあなたですよ。私は最初から「じーじ」ではなくて、あなたが生まれたその時から「じーじ」になった。そう、6年前、あなたが生まれたその時に、私は「じーじ」になった。「わお!じーじになった、じーじになった」と喜んだものです。

この6年間、あなたが残した殺し文句がいくつかあります。そのたびに「じーじ」はとてもうれしくなりました。
1.私が、料理しているときに、包丁で指を切ったら、「じーじ、猫手ですよ」と教えてくれました。
2.ある時、「あのね、あのね、じーじのことだーいすき」と言ってくれました。
3.「あーあ、早くじーじに会いたいなあ」と言ってくれます。

「じーじ」は、あなたが、病気をしたと聞いたら、夜も眠れないくらい心配します。痛い痛いと言っていたら、「痛いの、痛いの飛んでいけ!」ととなえてあげます。

どんなことがあっても、あなたをみていると生きているっていいなあって、神様からいただいた命を大切にしようと思います。改めて、ひいばあちゃんがいて、じーじとばーばがいて、お父ちゃんとお母ちゃんがいて、妹がいるって素敵なことだよね。

愛されるために生まれてきたあなた、でも人を大切にするためにあなたはいるのだと、「じーじ」は信じています。誕生日おめでとう、そしてありがとう!
By とうちゃん

ハレルヤ!

楽譜を手にした際、その五線譜の中に記されている拍子、テンポ、音符の動きなど明確になっているものと、スタッカート、フェルマータ、クレッシェンドと言ったニュアンスを汲むものと、大きく分けて2種類の表現方法を最初の段階で読み取らなければ、完成度の高い演奏に近づけないことがある。
ピアニシモで始まる音の出だしを、ある人は弱くと感じ、ある人は優しくと受け取る人がいる。

ところで、携帯にメールが送信されると、文字だけの場合と、その言葉に絵文字が付いてる場合では随分と違う解釈になる。
受け手に『おはよう、今日は暑くなりそうだね〜仕事終わったらジムに行って、いい汗流して来ます。』と、メールが来たら、文章だけを読むと、送信者は比較的元気な状態に感じますね。
ところが...
『おはよう😲 今日は暑くなりそうだね〜😩仕事終わったらジムに行って🏋🏿いい汗流して来ます💪💦』
絵文字が挿入されると、一日のスタートから目が回っている感じになり、暑くなりそうだね〜には、うんざりした顔に変わり、汗流して来ますでは、力振り絞って頑張ってるアプローチ。

毎年恒例のJOYチャペルのファミリーキャンプ。今年は、9月18,19日。委員会が発足し、準備が始まりました。
今年も楽しい催しと真面目な企画を委員会で知恵を絞って考えています。

3年前のファミリーキャンプで大好評だった「教会川柳コンテスト」を今年も開催します。JOYチャペルのこと、クリスチャン生活等、キリスト教にちなんだ内容の川柳を作って応募していただき、教会の皆さんの投票により優勝者を決定。優勝者の発表は、ファミリーキャンプで行ないます。キャンプの参加者も、都合で不参加の方も一緒に楽しめる企画です。

3年前の作品を幾つか紹介します。その年の流行がわかりますねw。

<最優秀賞>
「バプテスマ  いつ受けるって 今でしょう」

<キャンプ委員会特別賞>
「神様は 何でも出来る  イエス You Can」

<優秀賞>
「祈れない 時にも誰かに 祈られて」
「み言葉は わが光なり 老いの道」

<その他の作品>
「ビアホール 誘いを断り 祈り会」
「未完成 主のまぼろしを 祈りつつ」
「離れても 祈りでつながる Joyチャペル」
「教会に 老いた二人の 時間割」
「分かち合い ふれる手と手に 心あり」
「ひたすらに 求めてジョイに たどり着き」
「ファミキャンで 以外とはしゃぐ お父さん」

by しん1

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