子どもの頃から、道端に咲いている小さな草花が大好きでした。
結婚したらサザエさんやターシャ.デューダーのように季節ごとの花々やハーブに囲まれて暮らしたいと思っていました。

「さぁ、思い切り夢を叶えましょう!!」と、庭中にれんげ草の種を蒔き、子ども達とよつば探しをしてみたいからと、クローバーも植えました。

その結果...
「なんだこの庭は!、雑草だらけじゃないかー!!」と、夫に全部むしりとられてしまうという、そんな笑い話のような失敗も数々ありました。
けれど、ある時から私は、花を愛でることも出来なくなり、我が家の庭は手入れされることがなくなりました。
去年、娘が中学生になり、華道部に入部しました。
お稽古の度に花材を小さなブーケに切り揃えて私にプレゼントしてくれます。
本当は、家でもう一度復習するはずなのに"ママ仕様"にカットして持って帰って来ては「はいっ」と渡してくれるのです。

最初はその花を活けるのも億劫でした。
でもせっかくの花...とにかく花瓶に差しました。
次回はボーボーに生い茂っていたアイビーを庭から切ってきて少しアレンジ。
その次はアップルミントと...。

そうして少しずつ庭の草花に目が行くようになり、何年も放置していた庭には、生き残っていた草花があることにも気付き、胸がいっぱいになりました。
それから雑草を抜き、肥料をやり、ゴメンねと謝りながら毎日水やりもしました。
球根も久しぶりに植え付けました。
今、庭にはたくさんの花が咲いています。

毎月、毎月、娘はどんな想いでブーケを作ってくれていたのでしょうか?

娘のブーケ作りは、無言の祈りだったように思います。
娘の祈りと神様の養いの中で、私の心も我が家の庭もすくすくと元気に育っています。娘の顔にも笑顔が少し増えました。

涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。 (詩編126:5)

byゆかりん

宮城谷昌光さんの名作「孟嘗君」を読み返した。珠玉の言葉の宝庫である。読み返すのは4回目であるが、読み返すたびに出会う言葉が違う。読んだときの自分の状況や精神状態、或いは登場人物に託す願いというものが違うからだろうか。

今回出会ったのは、作品のラストに近いところで孟嘗君が語る言葉。

「人のいのちは、すでにあるものを守ってゆくというものではない。日々つくってゆくものだ。今日つくったいのちも明日はこわれる。それゆえ、いのちは日々生み出すものであろう」

巻末の解説を読んでわかったことがある。この小説は、阪神・淡路大震災をはさんで「神戸新聞」で連載され、大震災の後しばらく連載が中断されて、その後再開されて完結した作品である。エッセイ「孟嘗君の復活」の中で、神戸新聞の連載が終わり、約半月後に出版される『孟嘗君』について、「神戸のかたがたは、どんな思いでごらんになるであろうか。本になれば、わずかな行間になってしまう、そこに万感があるのはわたしもおなじである」と氏は述べておられる。

熊本地震と関わりをもっている今だから、出会った言葉であり、切実に胸に迫ってきたのだろうと思う。

今日の祈り
「神様、新しい朝を感謝します。与えられた今日一日にどんなことがあろうとも、あなたの定められた計画に従って、それが試練であろうと喜びの時であろうと、いのち輝く時であるよう導き、弱く脆い自分を励ましてください」

By とうちゃん

ハレルヤ!

締め切りは、とうに過ぎている...
わかってはいる。

月に一度、やってくる『オリーブの香り』のライター奉仕をさせて頂いている。

永遠の命に向き合いながら、原稿書きというタイムリミットに追われる。

つまり、過去に起きた出来事を思い出しながら、未来に姿勢を正し、〆切の今に焦るわけです。

最近、コーラス練習で使ってきた音源の整理をした。初期の頃はカセットテープに始まり、MD録音で音の財を築いてきた。iフォンアプリで録音している今を思えば、なんとも信じがたいアナログ手法。
しかし、このカセットテープのノイズと共に収まっている一曲、アンドレクラウチが歌う『Take Me Back』というバラード曲に、涙がこぼれた。

当時は英語の発音に気を取られて、日本語訳の深部に落ちないまま口ずさんでいたけれど、本当に珠玉の作品だと思う。

以下、インターネットで掲載されていた訳を載せます。
*******************
主よ 私を連れ戻してください
初めて あなたを受け入れた場所へ

主よ 私を連れ戻してください
初めて あなたを信じた場所へ

主よ あなたから随分遠く離れたような気がします
でも まだあなたの呼ぶ声が聞こえる
以前は知っていた とても簡単なこと
記憶が 私を引き寄せている
*******************

必死になってピッチを上げて歌っている自分の声が、繰り返し、繰り返し、賛美を捧げていた。歌詞の内容そのものが、今の自分の心を反映していることにも気づかされる。

結局、整理しようと思った音源機器は、全てそのままにした。

オリーブ原稿の〆切は、私を立ち返らせる期日なのかもしれない。

by MxM

私たちの教会では、年に2度「神の家族会」という名前にミーティングがあります。5/16はその「神の家族会」が昼食の後に行われました。

「神の家族会」って何? 他の教会では、おそらく「教会総会」等と呼ばれるものでしょう。教会の予算や決算、教会の大事なことを決定する、教会員全員が参加可能な大切な会です。

「総会」というと株主総会、総会荒らし、総会屋など、ちょっとものものしい会を想像してしまう人もいるので、もっと教会らしい良い名前にしたいねということで、JOYチャペルが始まって早々にこの名前に決まりました。教会に集まる私たちは、それぞれを神の家族としてお互い愛し合い、理解し合い、励まし合いながら、共に成長を望んで歩んでゆくものでありたいと願っています。そのような私たち神の家族が、それぞれの家庭で話し合いをするときのように、「家族だったらどう考え、どう行動するか」という意識をもって、お互いが神の家族として感謝しつつ、喜びを分かち合い、笑いに包まれ、時には激論を交わしながら、教会のことについて真剣に話し合う場、それが「神の家族会」です。教会のユースメンバーも積極的に参加しているのも、「家族」のための話し合いという意識が浸透しているからなのかなと思っています。

その他、JOY教会には、「JOYミーティング」という会があります。これは教会の重要事項を決定するためのものではなく、その時与えられている教会の課題やトピックについて自由に話し合うために行われます。

「神の家族会」、「JOYミーティング」、どちらも、あまり肩肘張った堅苦しい会議ではなく、穏やかな雰囲気の中で神の家族が理解し合い、話し合うことができる、それがこれらの会の目的です。

「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。 」  

エペソ人への手紙 02章 19-22節

by しん1

 昨年末、新人から23年間勤めた会社を辞めました。
理由は、定年後を見据えてキャリアチェンジしたいと思ったからです。

 昨年夏に退職を決意し社内の承認が下りた後、10月から転職活動を始めました。目指す企業は、全く違う業種でした。まず、もっとも行きたかったベンチャー企業に応募し役員面接でOKまで頂いていたのですが条件面で折り合わず諦め。その後、いくつもの会社に応募するも年齢制限や、方向性の相違、全く違うジャンルの職種である事(要するに未経験者と等価)などから、難航しました。
今までと同じ業種や職種であれば良い条件の求人は沢山あったのですが、あくまでも自分の目標とする業種や職種に拘り続けたためです。

 退職後、3か月くらいはユックリして、3月までには決まるだろうから4月から仕事開始だろうと言う計画でいましたが、流石に3月に入っても決まっていない時には焦りもあり、同業種への応募も頭を過りました。そしてついに、3月末時点で応募可能な候補企業が無くなってしまいました。

 しかし私は、今回の転職を決めるまでの経緯から、背後に神様が働いておられることを確信していました。
全ての事柄が一本に繋がっていることを感じていたからです。このためか、不思議なことに転職活動中、「必ず上手くいく」と言う確信があったので平安に過ごせました。

 4月に入ってすぐ、秋に受けたベンチャー企業(待遇面で折り合わなかった)に問い合わせをしました。
再考の機会を頂きたいというお願いでした。しかし、この会社の状況は昨年秋の計画よりも1年以上速いペースで事業が前倒しとなり、今まさに、私の様な人材が必要なため喜んで条件を再検討し提示する準備があるとの回答をいただけたのです。この半年で状況が一変していました。
 私にとって、これは荒野の40年、エリコの7周のようなものだと感じました。半年我慢が必要だったのです。そして無事に4/15から働き始めることが出来ました!

 神様が共にいてくださる、と言う確信によって、何にもかえがたい平安が与えられることに感謝です!

by 管理人

テレビのニュースで熊本の被災地にあるクリーニング屋さんを取り上げていた。街の中の個人経営のお店。母と息子で営んでいる。震災で、店舗兼住宅は半壊。とても住めない状態。それでも、すぐに店を再開。シャッターは開かない。「営業中です」という張り紙で、やっと店が開いているとわかる。お客さんが来るたびにゆがんだシャッターの隙間から店に出入りする。「お客さんのものを預かっているから」、「取りに来た人が閉まっていたら困るでしょう」という理由。夜は、自宅駐車場の車の中で寝る、食事も駐車場でとる。そんなにしてまで営業する姿が、地域の人を励ましている。

しかし、夜暗くなり、車の中で寝るとき、涙を流す。この先どうなるのだろうという不安、また大きな地震がくるのではという恐怖。

熊本の黒川温泉の小さな旅館で働いている娘、幸い旅館は大きな被害もなく既に再開。熱心なリピーターが応援も兼ねて来てくれて、29日、30日と満室だった。地震の後、再開に向けて従業員が一丸となって、一生懸命力を合わせて汗を流し、様々なキャンペーンにも取り組んできた成果。
地震の直後、怖いと言った娘、逃げ出したい気持ちと必死で戦っていると、泣きながら電話してきた娘。何日かたっても、昼間は、大丈夫だけど、夜になると不安と恐怖があると。

被災した人、また現地で支援している人もみんな同じ気持ちだと思う。今夜は大丈夫かと、この先どうなるのかと。

大学を出た後、8年間仕事をし、暮らした街。多くの友人や知り合いがいる街。社会人をスタートし、結婚生活を始め、子どもを育て始めた地。人ごとでは無い。震災後しばらくTVの画面に釘付けだった。自分も体調がおかしくなった。夜中に何回も目が覚めるようになった。

そんな私に与えられた聖句。
「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(創世記1:4~5)

一日でさえ、闇で終わることはなく、必ず朝が来るのだ。必ずこの闇を突き抜けていつか勇気と希望に満ちた朝がくると確信している。祈りつつ、多くの人と心と力を合わせながら、自分ができる支援を丁寧に、着実に行っていきたい。

By とうちゃん

熊本の被災地で過ごされている方々に、心からお見舞い申し上げます。皆様の夜が、1日も早く安心して眠れる時に変わりますように、お祈り致します。

わずか20年の月日の中で、阪神、中越、東北、そして熊本と甚大な被害をもたらした巨大地震を経験すると、誰しもが終末の時を迎えることを心で意識してしまうのではないでしょうか...

私の頭の中に浮かぶものは、ヨハネの黙示録的な事ではなく、不思議と創世記に出てくる、ノアの物語りです。

数年前、子ども達の合唱について学ぶ機会に恵まれ、昭和50年代頃より歌われていた曲に巡り会い、強烈なインパクトのタイトルと歌詞でありながら、公立の小学校の子ども達が声高らかに歌うその曲に魅了されました。

♬けだものがきた、けだものがきた、主よ〜ハレルヤ〜♬

ノアの造った舟に納まっていく生き物の様子を歌った曲です。

人の力で抗えない、自然の脅威に呑み込まれてしまいそうな世界になったとしても、主はノアを選び、動物たちを選び、種が滅びることなく今日に至ったのです。

私は、この黒人霊歌『けだものがきた』を歌うことにしました。
終わりが近づいていることを歌うより、主が示された『始まり』を多くの人々に伝えたいです。

ハレルヤ!

by MxM

家で、つい「語呂合わせ」や「駄洒落」を言うと、「やれやれ」という態度や、冷ややかな対応を取られることもw。(じゃあ止めろと言われそうですが。。)

先日の礼拝メッセージで松﨑牧師が、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」について説明してくださいました。
「岩」というのはギリシャ語で「ペトラ」。イエス様がペトロに向かって「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」といったのは、ペトロとペトラという文字の語呂合わせを用いて、岩と表現されたペトロの信仰告白の上にイエス様ご自身がイエス様の教会を建てることを説明してくださるためでした。

「語呂合わせ」は、雅楽で使われていたそうで、いまではヒップホップでよく使われたりしますが、2000年前にもすでに使われていたんですね。

イエス様は、聞く人々にわかりやすいように、(あるときはあえて聞いても理解できないように、)たとえで多くのことを話されました。『豚に真珠 (マタイ7:3-5)』、『目の中の丸太(マタイ7:6)』など、イエス様のたとえ話は、身近に感じることのできる事柄を用いていることも多く、そこから神の国についてなど、私たちにとっても非常に大切なことを語っています。

イエス様は、弟子たちと一緒のとき、徴税人や罪人と食事と共にしていたときにも、人々の心に残る、そして人を優しく包み込む思いやりにあふれたユーモアをもってたとえ話を語っていたように思います。

私も、イエス様に似るものとなるため!?、気持ちが和む、優しいユーモアが言えるよう勤しむことにしましょう。

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」
マタイによる福音書16章 18節
これは、JOYチャペル会堂の後ろに掲げてある聖句です。

by しん1

私がはじめてイースターエッグと出会った(見た?)のは15年前...
まだイエス様の事をよく知らない頃の事でした。
当時、幼稚園の年小さんだった息子はよく熱を出し、その日も大好きな幼稚園をお休みしていました。
(結局、その年の登園日数は97日でした。)
その日の夕方、玄関の呼鈴がなりドアを開けると、そこには担任の理恵先生が立っていました。
「今日は園児達とイースターのお祝いをしました。」(えっ!!イースター?...ってモアイとなんか関係あるの!?←心の声)
「イースターの時は春休みがほとんどなので、子ども達とお祝い出来るのは珍しいんですよ。」
と、息子にお祝いのおすそわけを届けて下さったのです。
理恵先生が届けて下さったのは、薄いピンク色に染められたかわいらしいゆで卵でした。
長――い1日を家の中で、2人きりで過ごしていた私達にとってそのピンク色のゆで卵はなんだか特別なプレゼントのようで、息子とニコニコ、ニヤニヤしながら卵をしばらく眺めていました。
つまらなかった1日が一瞬でステキな1日に変わりました。
理恵先生の心遣いに感謝します。

今では、私達母子も感謝な事に救われて
『イースター=イエス様の復活を祝う特別な日』と、理解しています。

毎年、毎年、イースターにはゆで卵を作り、卵におめかしをします。
私の(あなたの)大切な家族がイエス様の愛を知ることが出来ますように。
一緒に神様を賛美する事が出来ますようにと祈りながら...

by ゆかりん

4月2日、3日と勤務先の新入職員研修で、御殿場にあるYMCA東山荘に行ってきた。
この御殿場の名産品のひとつにハム、ベーコン、ソーセージなどがある。その中に「二の岡ハム」がある。これが大好きで、今回も会場に入る前に、二の岡ハムの売店で、ボローニャソーセージを仕入れた。私の頭の中では、YMCA東山荘=二の岡ハムであり、ワクワクとして御殿場まで車を飛ばした。

戦前、御殿場の二の岡地区には、キリスト教宣教師や著名人の別荘があり、アメリカ村と呼ばれていた。アメリカ人の宣教師を中心に養豚業、ハムやベーコンを製造しただけでなく、地域の振興のため、地元の人たちにその技術を伝授したそうである。その味を今も守っているのが、この二の岡ハムである。そして、この製造法を教えたのは、福岡の地から御殿場に移り住んだG.W.ボールデン、西南学院第3代院長である。御殿場と西南学院の関わりを発見し、より御殿場が身近になった気分である。

また、御殿場は「広岡浅子」にゆかりの地である。この東山荘も1915年に建設されたとき、浅子が多額の寄付を集めている。また、近くには浅子の別荘があり、そこでは夏季勉強会が開催され、村岡花子もそこで学び、「浅子」から多くの影響を受けたとされている。

そういうキリスト教にゆかりの土地でキリスト教主義団体の新入職員研修をもてることは、幸せなことである。新人の初々しい職員と接しながら、私も気持ちを新たにすることができた。この東山荘に滞在しているときは、朝早く黙想館に行くのを楽しみにしている。黙想館には、大きな一枚ガラスがありその向こうに富士山の雄大な姿がまるで絵のように見える(写真)。
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「山辺に向かいてわれ、目をあぐ・・・・」という聖句が自然に浮かぶ。この風景の中にあって、自分がなんとちっぽけな存在であるかということに気が付く。そして、こんな私を神様が「大切」にしてくださることへの感謝があふれてくる。

さあ、新しい年度の始まり。新社会人、新入学の人たち、いつも希望をもって進むことができるように共に祈りつつ歩みましょう。

by とうちゃん

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