ハレルヤ!

イエスは死んで3日目に蘇る、このみことばの重要な箇所を、深く捉えることが出来ないまま、6年前のイースターの日にバプテスマを受けました。
奇跡を起こす力を持ったイエスを読み取るのではなく、この奇跡のたとえが、我が身に起こり、その深い意味を知るところまで運んでくださるのがイエスの愛の業と知った6年だった。

高い険しい山に登ると言うことは、孤独と恐怖を受け入れることが引き換えになる。
山に登るようになってから、自然は美しいものでもあるが、息が止まるほどの恐ろしさも与えられることを体感した。

リュックに背負える持ち物と体力だけが我が身を守る。

穂高、槍ヶ岳、蝶ヶ岳、常念岳といった上高地周辺の山々では、分厚い雲がいきなり頭上を覆い、雹や雷を引き連れ山肌を叩き付ける場面に遭遇した。地上で見る稲妻ではなく、土の上をスパークする光りが走るのだ。那須山や桜島では靴底から熱を感じ取りながらの歩行であったり、由布岳や別府の山々は今この瞬間に大爆発を起こしてもおかしくない中、接近した。
火口に近づけなかった阿蘇山は、ヘリコプターに乗って、沸き立つ湖からの噴煙を見降ろした。
標高2500メートルあたりから、森林限界が現れて、植物がなくなれば、宿る生物も見当たらなくなり、地球と宇宙のかすかな摩擦音が鼓膜を支配する。
マウナケア山頂に到着した時には、二酸化炭素が吐き出せなくなった。笑ったり喋ることが苦しくなった。

しかし、これら激高に近い叱りを受けた後に来る、宥めの美しさ、温かさ、寛大なものは、全身全霊で主に身を委ねることをせずには訪れないものだろうか...

私は、2010年4月4日のイースターにバプテスマを受けて以来、家族、友人、仕事、あらゆる場面で山の頂に向かう途中の、自然の脅威に似た遭遇をしてきた。そして、その出来事ひとつ一つに無になっていく自分を見た。

3日目に蘇ることは出来ず...未だ仮死状態として呼吸が続いているような気がする。

終わってもいないし、主の宥めも頂けてはいない。祈りを深く持つために私に与えられた境遇なのだ。
私自身の復活への歩みは、経験した登山のどの山よりも高い...。

by MxM

家族旅行で香港に行ってきました。家族みんな、初めての香港。
以前私は仕事で毎年何回も海外出張していましたが、ここ10年ほどは日本国外に出ることはなかったので、ひさびさの海外でカルチャーショックを味わいました。
タクシーの運転は娘曰くジェットコースターのようなスリリングさ。(本物のジェットコースターのように安全は保障されていません^_^;)
方向指示器を使うドライバーはいません。。

地元の食堂では、分からない漢字の並んだメニューから絵付きのものを選んだら、塩気の全くないラーメンが出来たり、超激辛ラーメンを食べることになったり。

漢字圏なので、ある程度文字も読めるから大丈夫だろうと思っていましたが、あてが外れました。ベーカリーで《請勿自取》と書いてあるところにケーキが並んでいました。「自取」と書いてあるので、セルフサービスで自分で取って箱に入れろと書いてあると推測し、箱に詰めようとしたら、勢いよく店員が飛んで来ました。
《請勿自取》は「自分で取ってはダメ」という意味だったんです(~_~;)

そんな珍道中を続ける私たちに、何人かの人たちが道を教えてくれたり、助けの手をさしのべてくれました。慣れない文化の中、それらの人たちの優しさが心に沁みました。
そのとき、次の聖書の箇所が思い出されました。

「兄弟愛を続けなさい。旅人をもてなすことを忘れてはならない。」ヘブル人への手紙 13:2

by しん1

・過日我が家の冷蔵庫の掃除をした時、しなしなゴボウとグチャグチャきゅうり発見!
 ひゃー!!
 この時言いようもない罪悪感を感じてしまいました。
・1年ぐらい前 送られて来た雑誌で、飢餓が原因で1日に4万〜5万人の人が死亡して
 いること、その内7割以上が子どもたちであることを知りました。
 飢餓になるのは食糧が十分に作られていないからではありません。
 穀物は世界中の人が生きていくのに必要な量のおよそ2倍は生産されているのだそうです。
 それでも食べ物が不足しているのはどうしてでしょうか。
・それは世界の2割足らずの先進国(日本を含む)が世界の穀物の半分以上を消費してしまっているからと
 知りました。
 私たちのように食べ物がいつでも十分に手に入るのは世界のおよそ2割の人だけなのです。
 日本の食品廃棄の半分以上にあたる1000万トンが私たちの家庭から捨てられているのです。
 金額にして1年間11兆円!!!
・世界のどこかの国の子どもが飢餓で死亡していることを知らないふりはもう出来ません。
 私にも出来ることがあることも知りました。
    1  無駄な買い物、食べ残しを減らすこと
    2  できれば国産品、減農作物を選ぶこと
    3  季節のものを食べること
     「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ、
      また海の魚と空の鳥と地に動くすべての生き物とを治めよ」創世記1−28
  神様は私たちを信頼して委ねられたのですから
by ゆっこ

〜オリーブの香り〜No 197『手紙』  

Shin1

この季節になると思い出す光景がある。
九州は博多駅のホーム、寝台列車の出発前に、別れを惜しむカップルの姿があった。どちらかが、進学か就職で上京するのであろう。40年前の若者たちは、人前でいちゃいちゃすることもなくわかれ際に握手するぐらいだった。それでも、発車した列車が遠ざかるまで手を振り続けていたという小説みたいな光景が繰り返されたものだ。そんな二人をその後結んでいたのは、手紙だった。携帯電話もパソコンも無い時代、お互いの気持ちを思い切り伝えるのは手紙だけだった。当時の固定電話は、家に1台、下宿に1台で、とても気持ちを伝えあうような会話はできなかった。

若い時に、或る女性から200通近くの手紙をもらったことがある。多分、私も100通近い手紙を出したと思う。
手紙を出すと返事が待ち遠しく、ポストの中を一日何回ものぞき込んだ。手紙がくると、ドキドキしながら封をきった。何回も読み直し、行間の中にある相手の気持ちを必死で読み取ろうとしたものである。もちらん手書きだから、時として何度も書き直すようなこともあった。或いは、もらった手紙の文字で相手の気持ちを推測するようなこともあった。

聖書にも「手紙」が沢山あるが、このような気持ちで読んだことはないということに気がついた。例えば、コリントの信徒になったつもりで、言い換えるとパウロが私に書いた手紙と言うつもりで読んだことはなかった。

改めて、そんな気持ちで読んでみた。いきなり叱責を受けた。わかりました、わかりましたからこれ以上叱らないでくださいと言いたくなるくらい、パウロは繰り返し、言葉を投げつけてくる。行間に、パウロの熱い気持ちが汗となって飛び散っているのを感じる。パウロの背後にある神の圧倒的な力、サウロを回心させたあの力を感じる。最後まで、「目を覚ましていなさい」と叱咤激励される。
さて、私がパウロに返事を書くとしたら、どのように書くだろうか。今後、しばらくの私のテーマになりそうである。

さて、若い頃のその手紙を改めて読めるとしたら何か怖い気持ちになる。焼き捨ててしまいたい手紙もあれば、ずっと保存したいものもあるだろう。しかし、それらの手紙は所在不明である。ちなみに、或る女性とは妻のことなのだが。おーい、どこに隠してあるの?

Byとうちゃん

「しかし、あなたが神様に信頼することをやめないでいるなら、
思ってもみなかったときに
あなたを持ち上げ
あなたの心を重荷から
救ってくださいます。
その重荷は、あなたが落ち度のないままに
背負ってきたものなのです。」
これは、ハイジが盲目のおばあさんに読んであげた、お祈りの詩です。

ハイジとは...アルプスの少女ハイジのことで、私が子どもだった頃、TVアニメとして親しまれた作品です。

当時、放送されていた内容には、神さまやキリストについて出てきません。
それでも私は、山羊の乳をゴクリと飲み干したり、干し草に寝転んだり、おじいさんの膝にちょこんと座るハイジを見るたびに、そこはかとなく神さまの息遣いを感じていました。

友人と昔見たアニメの話題になって、アルプスの少女ハイジは、キリスト教の話よ!と言い放っても、孤児が大自然の中でたくましく成長していく話よ!と突っかいされてしまい、原作者のヨハンナ・シュピリが牧師の娘で、和訳されたのが大正時代に遡る話にまで到達出来ないのです。

それほどまでに、日本で子ども向けに制作されたアニメは、宗教の香りに蓋を閉めてしまう文化でもあったのですね。

たまにしか出席することのない祈り会に顔を出したある日、ライフセンターの移動図書館車が教会にやってきました。
そこで新刊になったばかりの、ハイジの贈りもの、と言う本を見つけました。
キリスト信仰に基づく原作を、TV放映されたアニメと比較しながら、イエス様の柔らかく温かな愛が溢れ流れる物語として解説している内容です。
解説著者は、長野のアルプスを望む場所で教会牧師をされている高橋竹夫先生です。

神さまを信じる心が創り出す作品は、信仰と言う形ない姿を理解出来ない子どもでも、じきに成長を終える脳や心臓の襞に、こっそりと印字されるのだと思えます。
大人になって傷ついた時に、力が必要な時に、誰かを励ます時に、子どもの頃に触れた音楽や絵本、アニメや映画が、思ってもみない助けと確信に変わると信じています。
イースターまでの間、原作ハイジを読んでみることにします。
ハレルヤ!

by MxM

うれしいことに最近のJOYチャペルの礼拝では、赤ちゃんの声が聞こえてきます。「礼拝の大切な時間、子供や赤ちゃんの声で遮られて大切な礼拝メッセージへの集中が切れて困ります!」 とはJOYチャペルでは考えません。
教会の礼拝は静粛な時、神聖な場所、厳かにしめやかに行われるものというイメージが強いかと思います。しかし、JOYチャペルの礼拝は、セレブレーション=祝祭のときです。毎週日曜日に、赤ちゃんからご高齢の方たちまで、喜びを分かち合い、ともに祝い、神様に感謝し礼拝します。そんな中に子どもたちや赤ちゃんの声が溢れているのは、本当にうれしいことです。

ルカによる福音書 18章 16,17節
イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。
神の国はこのような者たちのものである。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、
決してそこに入ることはできない。」

私がバプテスマ(洗礼)を受けたサンフランシスコにある日本人教会の牧師は、私に手紙を送ってくださるときには、かならず「我らの宝、⚪︎⚪︎兄弟へ」と書いてくださいます。バプテスマを施した牧師は、信仰の親として、私を「宝もののように大切な存在」としてとみてくれているのだなあと、いつも温かい気持ちになります (^^)

by しん1

・私の夫(牧師)はおもしろい失敗をして度々みんなの笑いのタネになります。
 ある時 教会の修養会に行って そこの山荘の大浴場に行った夫はタオルを
 忘れたのですが、取りに戻るのも面倒に思い ポケットにあったハンカチで
 体を洗ったのです、この場面を目撃されてしまい それ以来「ハンカチ牧師」
 となりました。

・黒柳徹子さんは旅のホテルでの朝食バイキングのことを本に書いています。
 別のホテルに泊まった(満室のため)友人(女優)がゆで卵が大好物だった
 ことを思い出し、その友人のためダウンコートの左右のポケットに卵を1個づつ
 入れました。
 その後 移動バスで友人に話すと、友人は「あら!嬉しい!!今日はまだ食べて
 いないの」と言うのでウキウキとポケットに手を入れたら、ポケットの中は
 ヌルヌル、底のほうはドボドボ状態だったとのこと。もうおわかりでしょう
 ゆで卵に見えたのは生たまごだったのです。

・夫は沖縄のホテルでゆで卵を見つけて、トレーの上で滑らないようにポケットに入れ、
 その後知人とお話ししながら朝食をすませました。
 ダイニングルームを出た時同行していた娘に 「パパ!ズボンが濡れてる!!1」と
 そうでしたさっきポケットに入れた卵は生たまごだったのです。

・こんなおもしろい失敗するのは夫だけと思っていましたが、似ている いえまったく
 同じ人見つけてしまいました。

・私たちクリスチャンはキリストに似る者になることを目指しています。

By ゆっこ

「共に生きる」、或いは「寄り添う」とは、何と難しいことだろう。
善いサマリア人は、傷ついた人を見て「憐れに思い」介抱するのであるが、この「憐れ」の原語は「自分のはらわたがちぎれるくらい痛みを共にし」という意味だと、ある牧師が教えてくれた。私は、社会福祉事業に従事するものだが、「ケア」という言葉の原語も「悲しみを共にする」という意味だと学んだ。

しかし、同じように痛みを感じながら、傍らに寄り添うというのは中々できることではない。昔、私はある障がい者の方から「お前は健常者だから、差別者だ」と言われたことがある。当時私は、「ハンディキャップのある人たちと共に」ということを自分の信条とし、様々なボランティア活動をしていた時期だけにその言葉はかなり重く響き、ショックを受けた。
よく考えてみれば、私はその人になれないし、本当の意味でその痛さや辛さをわかっていないのだ。甘っちょろい、うすっぺらな同情や慈善といったものだとしたら、それこそ自己満足であり、差別だと言われたのだと思う。

私にとって、それは大きな学びであったけれども、人との関係や支援するということに対して臆病になったのも事実である。それ以来、どうしたら寄り添えるのか、共に歩めるのかと随分悩んできた。確かに、善いサマリア人のように「自分のはらわたがちぎれるくらい痛みを共にし」なんてことはとても難しい。我々だって良く「私の気持ちをわかってくれない」と言うではないか。

だけども、私たちは「祈り」を通して、その人の傍らに寄り添うことができる。教会員の方々を見ていてそう確信する。
神に祈ることで、神と私、神とその人の関係の中で、神様の癒しが生まれる。その人について励ましと癒しがありますようにと祈ることで、神様の癒しがその人にあるとすれば、それはとりも直さず自分への癒しもまたそこに生まれている。その大きな神の働きを通じて、共に神に癒され、励まされたもの同士として、私はその人の傍らに寄り添うことが許される。それは共に生きるものとして相手にも認められるということなのだろう。

「祈れ、祈るは力なり」。この言葉の意味をかみしめている。

by とうちゃん

この年になって、将来の夢を打ち明けるのは少々照れ臭い話だが、晩年は横浜を脱して、長野のアルプスの山々を間近で眺める場所に生活拠点を移せたらと想像することがある。
このイマジネーションの出発点は、幼い頃に感銘を受けたミュージカルや映画、またアニメや小説の影響力が大きく、他の様々なことが成長しても、それだけは10歳の心に戻って取り出せる。何しろ傑作と言われる作品はリバイバルするわけで、多少手を加えたものになっていても『復活』して蘇り、何度も胸踊る気持ちにさせてくれる。

新年を迎えると、私はこの復活作品を鑑賞することにしている。
今年は劇団四季のサウンドオブミュージックを見てきた。

世界中で愛されている『ドレミの歌』。学校唱歌で取り上げられる『エーデルワイス』。ヨーデルとして広く知られている『ひとりぼっちの羊飼い』と、誰もが一度は聞いたことがある歌が、劇中音楽として演奏される。

『目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか』詩篇121章1節。
中でも最も好きな場面...朝のお祈りの後に、修道女達がスイスの山を見上げて歌う『アレルヤ』。

また歌だけではなく、神さまのみことばが台詞に生かされ、客席から舞台に向かう眼差しは、礼拝の十字架を見上げる思いにもなる。

~神様がドアを閉められるときは、窓を開けておいてくださる~
マリアの放つ台詞は、聖書の中に生きている。
『あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。』コリント10章13節。

10年振りくらいのサウンドオブミュージックの鑑賞を終えて...

劇場は暗闇、舞台に射す光と共に主が現される。幼い頃に見聞きして魅了されたものは、主の愛。その背景に映し出される山々を、朝な夕なに眺めて暮らしたいと夢を持つ。

by MxM

高校のとき『Cross Cultural Communication』というクラスを受講しました。意訳するなら「異文化をまたぎ、コミュニケーションを通してお互いを知る」というところでしょうか。アメリカ、イギリス、イスラエル、インド、韓国、中国、日本と多岐に渡る国の人達と椅子を輪にして座り、互いの国の文化や価値観を分かち合い、異文化に触れる貴重な体験をさせてもらえた時であったと感謝しています。このクラスを通して自分のもっていた価値観が唯一・絶対ではないこと、また自分が正しいと信じていたことが見る視点を変えると決して正しくないことがあり得ること、また色んな視点に立つことの面白さを学び、視点を変えて観ることの大事さを教えてもらいました。

その頃の私は日本人の両親をもち、日本人であるという自分と、東南アジアで生まれ育ち、東南アジアの文化・価値観の中で生きている自分との中で自分のアイデンティティーを上手に作りあげることが出来ず混乱した時期を過ごしていました。それは高校卒業後に日本の大学に進み、日本の中に身をおいたときに顕著に現れ、自分のルーツである日本に住んでも日本人とはどこか違う自分を感じて落ち込んだり、実家に帰省して地元の人と触れても外国人である自分を感じ、どちらの国にいても根なし草のような自分の存在をどう受け止めればよいか分からず混乱しました。

今ならまさに青年期のアイデンティティーの確立期にあったなあ~と落ち着いて分析できますが、その当時は人と違う経験をたまたま積んできた自分の個性を自分に欠けた部分があるのではないかと感じ疎ましく思ってしまったのでした。そんな折、友人に誘われ何度となく通っていた教会で『わたしたちの本籍は天にあります。』という一節を耳にし、詳しい説教の内容は忘れてしまったのですが「そうか、私達一人一人が神に創られたものであるならば、私たちの国籍は天国にあり、私たちの真のアイデンティティーは『天国の民』で良いんだな」と妙に腑に落ちたのでした。それとともに根なし草ということは、どんな環境におかれてもチャンネルを切り替えられる良さがあるのかもしれないと高校時代の講義で教えられた多面的なものの見方を感じ、あるがままの自分を受け入れていく時となりました。成人(20歳)の頃からすると、×(かける)2倍+α程の歳となっていますが、成人の日が訪れる日毎に自分が悩んでいた20歳前後の頃のことを懐かし思い返します。そして、その時々において、神様が用意して下さった御言葉やその時々に必要な体験に支えられて生きてこられたんだと改めて思わされるのでした。

By YS

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